四、作風について九州に残る一連の作例を作風からみると、中央作に近い洗練味を示す真木大堂像は例外的な存在であり、むしろ太造りのプロポーションを持ち、甲だけでなく兜の文様なども賑やかに彫出する在地的な彫刻表現を示すもののほうが多い。像高180cmを越える福岡・個人蔵毘沙門天像(No. 18)はそうした在地系作例の典型であり、金鎖甲を彫出して錣の深い兜を着け、兜の鉢には筋と鍬形の文様を細かくあらわしている。この像は最近まで原所在地に関する手がかりがなかったが、同形同大の佐賀・愛染院天部像残欠(No. 24)及び作風が酷似する佐賀・半田区毘沙門天像(No. 25)が唐津市鏡山周辺で確認されたことにより、当初は唐津周辺にあった可能性が高いことが判明した。制作時期は面貌が実人的な表現となっていることや胸前で表甲を重ねる点など、文治3年(1187)銘の永興寺像(No.9)と作風の共通点が多く、その先駆的な作例として12世紀中頃の制作と認めてよいだろう。当初安置された寺院は不明であるが、近くには奈良時代以来の歴史をもち、八幡宮系の鏡神社とその神宮寺があったことが留意される。福岡・東光院旧蔵の福岡市美術館十二神将像(No.7)及び福岡・崇福寺毘沙門天像(No. 16)、福岡・東林寺毘沙門天像(No. 15)も在地系の作例で、ずんぐりとしたプロポーションを持ち、よりローカルな様相を強めている。なお一連の作例の中には兜を別材で作り、円頂の頭部に被せるもの、または被せていたとみられるものが含まれる。こうした構造は鎌倉時代以降の作例に時折見かけるが、平安時代では奈良・法隆寺三経院の持国天像(No. 33)や鳥取・長楽寺毘沙門天像などわずかな作例しか知られていないのに対し、九州では福岡・求菩提資料館天部形立像(No. 10)、福岡・東長寺持国天像(No. 17)、福岡・須恵町天部像残欠(No. 21)など複数の作例があり、また真木大堂の広目天像も炎髪が後補だとすれば当初は兜を被せていた可能性が高い(注9)。兜を別材とする理由は、如来像の着衣と肉身部を別材で造るのと同様、仏像の生身性を意識した工夫かとも思われるが(注10)、隼人塚の四天王像(No.3)や文化庁四天王像(No. 27)が4躯とも兜を着け、なおかつ顔を覆うように兜を深く彫出することと通じ、一連の作例の兜に対するこだわりの強さが窺われる。こうした点も九州の平安神将形像がもつ特徴として留意しておきたい。五、南宋彫刻との関係神将形像が兜を着け、両手を交差し、金鎖甲を彫出するという表現自体は、実は古くからあり、例えば両手交差は奈良〜平安初期の奈良・興福寺北円堂四天王像や奈― 506 ―
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