鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
518/625

良・唐招提寺金堂四天王像などに、金鎖甲彫出は中国・唐時代の将来像である京都・教王護国寺の兜跋毘沙門天像に既に見ることができる。こうした先行作例の存在から、復古的表現、あるいは千手観音の頭上面に清凉寺釈迦如来像の波状頭髪を写すというような平安末期頃から顕著になる仏像の生身性あるいは霊験性を担保するような造像行為の可能性も一応視野に入れておくべきかもしれない(注11)。ただ、一連の神将形像が平安後期の九州に集中的に現れる理由や、仮に復古表現や霊験性の担保であったとしても出典が異なる彫刻表現がひとつの像に共存する理由は依然明らかではない。また先例として挙げた上記作例の特徴も、いずれも源流は中国にあり、例えば両手交差は西安碑林博物館所蔵で8世紀の制作とみられる西安市西関王家巷出土の石造天王立像(注12)、金鎖甲彫出は唐代の上海博物館所蔵石造天王立像、双方を具備する作例では北宋時代の鄭州市博物館所蔵二天王立像など枚挙にいとまがない。こうした点から中国の直接的な影響も視野に入れた検討が必要であろう。ところで中国では伝統的に皇帝や貴族の陵墓の参道に文官武官や動物の石像を安置することがおこなわれたが、武官像には兜を被り、金鎖甲を彫出した甲を着け、両手を交差して剣を地に立てるものが多いことには留意すべきであろう。こうした中国の陵墓石像に関しては、近年の東アジア海域交流史研究の進展から寧波を中心とする中国江南地域の石造遺物の研究が進み、例えば北西部九州に偏在する石造物「宋風獅子」や「薩摩塔」などとの関連が説かれるようになっている(注13)。寧波市郊外の東銭湖畔に数多く残る南宋陵墓の石像もそうした一連の研究の中で注目されるようになったものであるが(注14)、現在南宋石刻博物館として整備されている南宋の宰相史漸(1124〜1194)の墓の参道に安置されている老若一対の武官立像は、史漸の没年から紹煕5年(1194)頃の制作と考えられるもので、ここで問題としている神将形像と年代的にも近く、好適な比較材料と言えよう。史漸墓の武官像〔図17、18〕は、いずれも梅園石と呼ばれる寧波周辺で採集される赤みがかった石材の丸彫り像で、房と羽飾りの付いた兜を被り、甲の文様を彫出した金鎖甲を着けて直立し、龍頭形の剣の柄を握る右手に左手を添え、剣を地に突き立てる姿にあらわされている。その像容は他の南宋陵墓武官像と大略同じであるが、両手を重ねる手の形は「拱手礼」という中国の伝統的な礼法に則ったもので、剣を地に突き立てるという行為にはおそらく墓域の結界傍示という意味も込められていると思われる。さて、史漸墓像と九州の神将形像、例えば真木大堂四天王像の持国天像や文化庁四天王像の持国天像などと比べてみると、兜や甲の形式の違いなど細部の違いはあるが― 507 ―

元のページ  ../index.html#518

このブックを見る