基本的な図像が共通することは明らかである。また史漸墓像の表情は吊り上り気味の目に怒気を込めつつ笑みを含むように口角を上げ、墓域の尊厳を護る武官像に相応しい森厳な趣をもつが、こうした目の形は例えば福岡・個人蔵毘沙門天像(No. 18)や文治3年銘の永興寺毘沙門天像(No.8)、さらにこれらの兜の庇がV字型を呈し、賑やかに兜の筋や文様を彫出する感覚も相通じるものと言えよう。おわりに以上、一連の平安神将形像の図像的な問題を紐解く手がかりとして、最後に南宋の陵墓武官像との類似に言及したが、具体的な繋がりを示す資料には乏しく、両者の関係については依然憶測の域を出ない。ただ、平安後期から鎌倉時代にかけて活発化した九州博多と寧波との国際交流の状況を勘案すると、紹介したような南宋彫刻との類似は、なお様々な可能性を残しているように思われる。一連の作例に八幡宮関連のものが目に付くことは既に述べたが、九州では11世紀に中央と結びついて権門化に成功した宇佐八幡宮が大きな力を持ち、その中では八幡神自体が応神帝の霊と位置づけられ伊勢に次ぐ皇室の宗廟として扱われた。また、そうした中で天台の法華一乗思想と八幡護国思想の一体化が図られ、埋経という手段を通じて九州全域に勢力を広げていったと考えられている(注15)。こうした思想の有力な推進者が太宰権帥として九州に赴任した大江匡房(在任1097〜1102)であったことが吉原浩人氏によって明らかにされている(注16)。大江匡房は八幡神を崇敬したことはよく知られており、宇佐八幡宮に新堂を造営して十一面観音像と延命菩薩像を寄進している。また承徳2年(1098)に太宰府で大仏師真快に東山寺現蔵の十二神将像(No. 30)を造らせて石清水八幡宮に奉納したことも既に述べた。博多を中心に日宋の交流が活発化する平安後期において、宇佐八幡宮が応神帝の廟所という性格を明確にしたとすれば、そうした廟所の守護神として神宮寺などに四天王像が造られる場合、南宋の陵墓すなわち廟所の武官像の図像が用いられた可能性はなかっただろうか。また隼人塚四天王像は大隅国一宮であった大隅国正八幡宮と関係が深く、近くには大隅国分寺が存在していた。実は隼人塚像と類似する四天社四天王像の近くには肥前国一宮で八幡宮系の河上神社と肥前国分寺跡、薩摩川内市四天王像の近くには薩摩国一宮でやはり八幡宮系の新田神社と薩摩国分寺跡がある。こうした構図からは、奈良時代の金光明最勝王経による護国思想が新たな八幡護国思想によって中世的に変容を遂げていく様相も窺え、一連の石造四天王像と八幡信仰との関連もおぼろげながら浮かび上がる。現段階では憶測の域を出ないものの、こうした平安後― 508 ―
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