鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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(注25)。こうした点から、ファーガソンの挿図は、レヒネルが宮殿に関心を持つ契機とはなりえるが、実際の建築に応用するためには、詳細に描かれたこれ以外の典拠の存在が示唆されるのである。別の典拠の存在を促す理由として言語の問題がある。レヒネルがどの位英語を解したかは分からないが、青年時代にベルリンに留学し、1870年代にはフランスで活動したことから、ドイツ語とフランス語はある程度は解したはずである。そこで『建築史』でマドゥラの宮殿内部の造形に関心を抱いたレヒネルが、これらの外国語で更なる情報を求めた可能性が浮かんでくる。4 ラングレ『ヒンドスタンにおける古代と近代の記念物』その可能性が高いのが、『ヒンドスタンにおける古代と近代の記念物(以下、記念物)』(全2巻、1821年)である(注26)。この本は、東洋学の碩学ラングレによりフランス語で著された。本書は2巻目の冒頭をマドゥラに割き、挿図4に、ダニエルの版画《宮殿の内観、マドゥラ》を縮小して写したものを使っている〔図6〕。挿図4の描画面は約21.2×15.2cmの長方形で、約5cm四方の『建築史』の挿図213よりは大きく視認しやすいため、より参照に足るように思われる。レヒネルが『記念物』を参照していた場合、挿図に劣らず貢献したのは文字情報といえる。ラングレは宮殿跡の内部について「インドとサラセン建築の特徴を見出す」ダニエルの見解を支持したが、その前段で別の見解として、宮殿の内部をヨーロッパとインドの混合様式とみなす18世紀の宣教師の文献を引用している(注27)。このくだりからレヒネルは、ヨーロッパとアジアの要素が混在する室内表現が実在し、それが可能なことを確信できたはずである。5 ダニエル『オリエントの景観』『記念物』を読みそびれたとしても、レヒネルは、サウス・ケンジントン博物館にてダニエルの版画集に出会えただろう。ヴィクトリア&アルバート博物館版画素描室のフランシス・ランキン氏は同館所蔵の『オリエントの景観』について、その明確な来歴は不明だが、サウス・ケンジントン博物館の前身である美術博物館から移管された可能性から、1864年にはサウス・ケンジントン博物館の所蔵になった可能性が高いとの見解を示している(注28)。事実『オリエントの景観』は、1870年の国立美術図書館の図書目録に掲載されている(注29)。版画群は、1909年に版画素描室に移管されるまで図書館にあった(注30)。― 41 ―

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