注⑴田邉三郎助「旧尼崎家蔵 四天王像」『國華』1166、1993年1月⑵武笠朗「兵庫・東山寺蔵石清水護国寺大江匡房奉納真快昨十二神将」『佛教芸術』203、1992年期の九州における宗教的思潮が母胎となり、その中で南宋彫刻の表現の一部が主体的に受容され、九州に独特の神将形像が成立したのではないかと考えている。11、1986年3月1984年2月7月⑶岩佐光晴「川端家寄贈の毘沙門天立像」『MUSEUM』592、2004年10月⑷八尋和泉「隼人塚石造四天王造考」『鹿児島考古』34、2000年7月⑸松本隆昌「佐賀県四天社石造四天王像─佐賀県佐賀郡大和町所在の丸彫石造四天王像について─」『佛教藝術』251、2000年7月⑹八尋和泉「日田永興寺文治三年銘毘沙門天像と九州の藤末鎌初」『九州歴史資料館研究論集』⑺伊東史朗「真木大堂不動明王二童子像・大威徳明王像」『國華』1205、1996年4月⑻渡辺文雄「六郷満山と中世石造文化」『豊後田染荘の調査』Ⅰ、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館、1986年3月⑼真木大堂広目天像の頭髪は末吉の実査によれば頭髪は近代以降の後補と見られ、また頭部全体も補作部が多く、かなり損傷していた時期があったようである。⑽伊東史朗「阿弥陀如来坐像 大阪・法道寺蔵」『学叢』13、1991年3月⑾奥健夫「如来の髪型における平安末〜鎌倉初期の一動向─波状髪の使用をめぐって─」『仏教芸術』256、2001年3月⑿松原三郎『中国仏教彫刻史論』図版747、吉川弘文館刊、1996年11月⒀井形進「宗像大社の宋風獅子とその周辺」『佛教藝術』283、2005年11月、同「修羅山遺跡の宋風獅子と薩摩塔」、久山町教育委員会編『修羅山遺跡─福岡平野周縁の山岳寺院─』2008年⒁楊古城・龔国宋『南宋石雕』寧波出版社、2006年12月、藤岡穣「鎌倉彫刻における宋代彫刻の受容」『寧波の美術と海域交流』東アジア美術文化交流会編・中国書店刊、2009年9月⒂飯沼賢司「権門としての八幡宮寺─宇佐弥勒寺と石清水八幡宮の関係─」『中世成立期の歴史像』十世紀研究会編、1993年5月⒃吉原浩人「大江匡房と八幡信仰」『早稲田大学大学院文学研究科紀要別冊』第10集、文学芸術編、― 509 ―
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