鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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『オリエントの景観』には、無彩色版もある。サウス・ケンジントン版は着彩された一葉以外、《宮殿の室内、マドゥラ》(V&A, Inv no. 14.894.89)を含めたすべてが単色刷りである。後から色彩を重ねなかったために、画面は色がにごらずコントラストの強さが保たれている。確かに、着彩された大英図書館版(Tab. 599.a)と比べると、かまぼこ型ヴォールトを支えるアーチのカスプや、ホール長手を取り囲むアーチ群にほどこされたカスプの繰りがより深く、鮮明に見て取れる。『記念物』の挿図4も緻密には描かれているが、ホールの空間に食い込むようなカスプの存在感は大画面のサウス・ケンジントン版には及ばない。また大画面では中央の床面が側廊よりも下がっていることが、挿図4より理解しやすい。こうした建築要素が、ハンガリー工芸美術館の中庭ホールにも採用されたと考えられる。中庭ホールのガラス天井を支える鉄材は、先行研究の図版を見る限りでは、1890年頃までには、細い軽快なタイプが主流となっていた(注31)。ハンガリー工芸美術館の中庭ホールの支持材は存在感があり、カスプや花形の抜き穴で装飾されていることから、その対極に位置するものといえる。同じビルディング・タイプの同時期の傾向と異なる点に、イギリス旅行の影響の一端を見ることができる。6 「東西建築の混合」マドゥラの宮殿跡に東西建築が混合するのを認めたのは18世紀の宣教師だけでなく(注32)、19世紀後半の建築家も同様である。イギリス人建築家ロバート・F・チザムは宮殿跡の実測調査を行い1876年に報告した。その報告で彼は、宮殿全体はサラセンとヒンドゥーの混合で、装飾はヨーロッパ的形態のヒンドゥー的解釈と分析している(注33)。質疑応答では、宮殿を描いたチザムの素描を見た質問者が、ヨーロッパ的なプロポーションに衝撃を受けたとコメントした(注34)。チザムは、ダニエルの版画は実物よりもサラセン的としながらも、「実に正確」と評している(注35)。これは、18世紀19世紀を問わず、ヨーロッパ人が、宮殿の実物はもとより、それを描いたチザムの素描やダニエルの版画にも、ヨーロッパとアジアの混合を認めたことを示している。同世代のヨーロッパの建築家が宮殿跡に東西建築の混合を見出しているのであれば、同様にアカデミックな研鑽を積んだレヒネルの目にそう映ったとしても不思議ではない。レヒネルは、東西世界に共通する装飾モチーフを掲載した書物に想を得たとされ(注36)、同時代の人に東方を想起させる植物モチーフを工芸美術館の装飾に導入したことから(注37)、ハンガリー人の東方出自説を支持していたと考えられる。また彼― 42 ―

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