注⑴日中共同ニヤ遺跡学術調査隊『日中共同ニヤ遺跡学術調査報告書』第1〜3巻、1996〜2007年、日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査隊編『日中中日共同丹丹烏里克遺跡学術調査報告書』2007年。⑵前掲日中共同ニヤ遺跡学術調査隊(2012)300頁。⑶以上、中国社会科学院考古研究所新疆考古隊「チラ県タマゴゥ仏寺遺跡発掘調査報告」日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査隊編『日中中日共同丹丹烏里克遺跡学術調査報告書』2007年、330頁。⑷田辺勝美、前田耕作責任編集『世界美術大全集 東洋編』第15巻、中央アジア、小学館、1999年、挿図185、186。⑸前掲田辺ほか(1999)挿図204など。⑹前掲中国社会科学院考古研究所新疆考古隊(2007)303頁。⑺前掲中国社会科学院考古研究所新疆考古隊(2007)314頁。⑻日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査隊編『日中中日共同丹丹烏里克遺跡学術調査報告書』⑼中共策勒県委、策勒県人民政府『策勒達瑪溝』大成図書有限公司、2012年、26〜28頁。⑽前掲中国社会科学院考古研究所新疆考古隊(2007)322頁⑾前掲中共策勒県委ほか(2012)51頁。⑿前掲田辺ほか(1999)図版260、263。⒀前掲中共策勒県委(2012)50頁。⒁熊谷宣夫「西域の美術」西域文化研究会編『西域文化研究第5 中央アジア仏教美術』法蔵館、1962年、95〜98頁、104頁。⒂前掲田辺、前田(1999)図版256〜260、263〜265、挿図193〜195、197〜198、202〜205。⒃安藤佳香「新出ダンダンウイリク壁画をめぐって─西域絵画におけるホータン様式を考える─」日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査隊編『日中中日共同丹丹烏里克遺跡学術調査報告書』2007年、257頁。⒄百橋明穂「コータン仏教美術史の再検討」百橋研究室編『敦煌・絲綢之路国際学術研討会議論文集』2012年、5頁。⒅拙稿「炳霊寺石窟野鶏溝(第192窟)の北朝壁画について」『佛教藝術』第308号、2010年、9⒆曽布川寛、岡田健責任編集『世界美術大全集東洋編 巻3 三国南北朝』小学館、2003年、図⒇吐谷渾については松田寿男、和田博徳両氏等の詳細な研究が既にあり、本稿もそれらに負うところが大きい。和田博徳「吐谷渾と南北両朝との関係について」『史学』第25巻第2号、1951年、80〜104頁、松田寿男「吐谷渾遣使考」『松田寿男著作集』第四巻、東西文化の交流Ⅱ、六興出版、1987年、初出:『史学雑誌』第48編第11、12号、1972年、68〜126頁。 『魏書』巻6、吐谷渾伝、2240〜2241頁、『周書』巻32、巻50、申徽伝、吐谷渾伝、556頁、913頁。また第285窟の題記中にある滑姓は、吐谷渾を媒介として初めて西域と通じた南朝梁によるエフタルの呼称「滑国」に由来するものと考えられる(拙稿「敦煌莫高窟第285窟開鑿の背景について」『美術史歴参 百橋明穂先生退職記念献呈論文集』中央公論美術出版社、2013年、499〜518頁)。2007年、図版37−2。〜37頁。版185。― 520 ―
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