鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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ず。白き綾のなよゝかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御なをし、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、「釈迦牟尼仏弟子」と名のりてゆるゝかによみ給へる、また世に知らず聞こゆ。沖より舟どものうたひのゝしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、たゞ小さき鳥の浮かべると見やらるゝも心ぼそげなるに、雁の連ねて鳴く声、楫のをとにまがへるを、うちながめ給ひて、涙こぼるゝをかき払ひたまへる御手つき、黒き御数珠に映え給へる、ふるさとの女恋しき人\/、心みな慰みにけり。叙情豊かな名文は、光吉の細緻な筆と鮮やかな彩色によってほぼ逐語的にあらわされた。ただし、須磨巻の抄出箇所とすれば、この場面選択は比較的新しい。たとえば、久保惣本に先立つ室町時代の「源氏物語図扇面貼付屏風」(広島・浄土寺)や土佐光信(1434?−1525?)によるハーヴァード大学アーサー・M・サックラー美術館の画帖には、それぞれ⑦と③の場面が採用される。現存作品を見る限り、④の場面を描く須磨の例は、17世紀以降の源氏絵に偏重している。光吉の6曲1隻屏風(京都国立博物館)、伝光吉筆のいわゆる54帖屏風(出光美術館)、土佐光則(1583−1638)筆と伝わる画帖(滋賀・石山寺)、住吉如慶(1599−1670)の画帖(サントリー美術館)などがそうだ。探幽(1602−74)や氏信(1615−69)の狩野派絵師による2つの54帖屏風(宮内庁三の丸尚蔵館、個人)のほか、慶安3年(1650)の『絵入源氏物語』や『源氏小鏡』などの版本挿絵も同様の場面を選択するものの、この図柄がいち早く光吉に採用され、それが光吉の画系に連なる次世代の絵師へと継承されることを重視したい(注12)。直裁すれば、④は17世紀初め、光吉の周辺で生み出された須磨図といえる。そして、その創案に発想を与えたのは『伊勢物語』第87段を絵画化した例だろう。『伊勢物語』の該当段では、布引の滝を兄とともに訪れた男が、その帰途、芦屋のほうに海人の漁火を見て歌を詠む。本文は次の通り。 帰りくる道とをくて、亡せにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。やどりの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじのおとこよむ。 晴るゝ夜の星か河辺の蛍かもわが住むかたの海人のたく火かとよみて、家に帰り来ぬ。該当箇所の絵画化では、穂久邇文庫の絵巻やサントリー美術館の色紙貼交屏風な― 528 ―

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