注⑴ 寺田生子・渡辺美紀『レヒネル・エデンの建築探訪』彰国社、1995年、71−72頁。⑵ Vámos, Ferenc, Lechner Ödön, vol.2, [Budapest(以下、Bp)]: Amicus kiadás, 1927, p. 16.⑶ ハンガリー人の名は姓・名の順で表記する。⑷ 共同設計者にパールトシュ・ジュラが名を連ねる。従来から、彼が事務所運営に才覚を示すも造形面で保守的という点から、共同活動においてレヒネルの占める割合が大きい、とされている。本稿もこれを継承し、考察対象としない。Hadik, András, “Lechner Ödön építo˝mu˝vész pályája,” Lechner Ödön 1845−1914 (Exh. Cat.), Bp: Magyar Építészeti Múzeuma, [1985], p. 32.⑸ Ács, Piroska, Az Iparmu˝vészeti Múzeum palotájának építéstörténete, [Bp] : Iparmu˝vészeti Múzeum, ⑹ 「応用美術館及工芸学校用ビルの要綱・1890年11月9日宗教文部大臣文書認可50556番」。実見した小冊子には「1890 Mu˝vészi Ipar」と手書きされていた。レヒネル文献表から同年・同誌のは、講演で「ハンガリーは何百年もの間トルコに対するヨーロッパの砦だった」と述べており、ヨーロッパの一員としてのハンガリーの立場を支持していたことも分かる(注38)。この二つのハンガリーの特質を、建築芸術において同時に表現できると建築家に確信させたのが、宮殿跡を描いたダニエルの版画であったと思われる。構造上、鉄の支持材にカスプの必然性はなく、展示室に囲まれた中庭ホールの床面レベルは、周囲と揃える方が工期も短く安価であろう。だがレヒネルは、建築における東西の融合の先達マドゥラの宮殿跡にあやかって、その建築要素を導入したと考えられるのである。おわりにハンガリー工芸美術館の中庭ホールには、設計者レヒネルと英国芸術の出会いの成果が反映している。契機は東洋建築の最新文献であるファーガソンの『建築史』といえる。この豊富な図版の一つにダニエルが南インドのマドゥラの宮殿跡を描いた版画が複製されていた。東西の建築が混在して見える宮殿の挿図に関心を深めたレヒネルは、ラングレの『記念物』を読んで、造形の意味を理解したであろう。『記念物』に出会えなかったとしても、レヒネルはサウス・ケンジントン博物館内で、モノクロームのダニエルの版画《宮殿の内部、マドゥラ》を参照することができた。彼はそこに東西の融合を認めて、ハンガリー工芸美術館の中庭ホールに適用したのである。東洋の血が流れる西洋の一国というハンガリー固有の特質が、国内ではなく国外にある着想源によって工芸美術館の中庭ホールに具現された点は、ハンガリー独自の様式の提案者として民族と関連付けられてきたレヒネル観に一石を投じるものとなろう。1996 他参照。― 43 ―
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