ど、室町時代の数例が同一の図様を示し、嵯峨本へと踏襲される(注13)〔図6〕。この場面を、久保惣本の須磨と比較したい。まず、両者の図様が同じ構想で仕上げられていることに、多くの説明は要すまい。主人公主従とその視界の先に拓けた海とを、画面の対角線上に据える配置のほか、海に臨む3人のうち、背中向きの主人公と従者の1人を相似する姿型で前後に連ね、その間にこちら側に顔を向けた人物を挿すところを共通させる。そして何より、2図が無関係に成り立たないことは、海をゆく舟の数の一致が証する。『源氏物語』は「沖より舟どものうたひのゝしりて漕ぎ行くなども聞こゆ」、『伊勢物語』は「海人の漁火多く見ゆるに」と述べていた。つまり、どちらのテキストにも具体的な艘数は記されず、その決定は絵画を制作する側に委ねられる。にもかかわらず、描かれた舟はいずれも2艘だった。先述した受容美学の理屈を援用するなら、2つの図様を結ぶのはまさにテキストの外に置かれた受容者のイメージの近似にほかならない。両者の間に意図的な図様往還が起こっていることは確実だろう。3、イメージの交錯それでは、このような交換はいかなる理由でなされるだろうか。以降の記述では、物語読者の記憶や期待のなかに、2つの絵画を繋ぐ接点を探りたい。もとより、両者はテキストのレヴェルで基本的な話型を通わせる。いずれも高貴な血統や身分の生まれのものが、何らかの事情によって本来属する階級から追放され、放浪の旅をする─折口信夫が説くところの貴種流離譚である(注14)。実際、須磨巻には、かつて須磨が業平の兄・行平(818−93)の配流された地であることをいうくだりが2箇所ある。1つはいよいよ源氏が須磨へ下る場面、もう1つは須磨での暮らしが初秋におよんだ頃のこと。どちらも行平詠歌の一部を踏まえ、両者の関連をほのめかす。つまり、源氏の立場を行平に重ねる発想はテキスト自体に包含されるわけだが、ここではそういう連想を増幅し、定着させる触媒としての注釈を重視したい。そこに示される理解が、テキストの外に布置する読者の意向によってテキストを作品ならしめるイメージ形成の結果であるならば、それは物語の絵画化と等価に近い性格を持つからだ。久保惣本や嵯峨本に近い時期の成果には、慶長3年(1598)、中院通勝(1558−1610)による『岷江入楚』がある。通勝がおよそ10年を費やし、全55巻の大部にまとめ上げたこの著書には、『河海抄』(四辻善成著、1362−68年頃)、『花鳥余情』(一条兼― 529 ―
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