のイメージの造成は、画事に携わった知識層によって主導され、その解釈が絵画に具体的な形と色を与えてゆくのだ。そういう状況は、光吉の師・土佐光茂(1496?−1569?)による「車争図屏風」(京都・仁和寺)がよく伝える。『御湯殿上日記』によれば、永禄3年(1560)、正親町天皇(1517−93)の調度として発注された車争図では、図様の選定に三条西公条(1487−1563)があたり、さらに別の公家たちとの協議を受け、光茂は下絵を修正している(注17)。このことは、ことに特別な注文による源氏絵の場合、絵柄の決定には『源氏物語』に精通した人物の助言や指示が不可欠であった事情を伝える(注18)。したがって、ある源氏絵が新たに成しとげた事柄を見定めようとするなら、注文者や絵師のほか、制作を仲介した人物の知識や解釈を検証する作業が必要となる。久保惣本の場合、中院通村がその立場にあった。ならば、『岷江入楚』に説かれる『伊勢物語』への連想が、伊勢絵に類する須磨図の創案にも作用したことを疑いたい。その理由は、とりもなおさず通村と通勝の親子関係による。通村の父・通勝は『岷江入楚』の編纂のみならず、『伊勢物語』にも重要な仕事を果たしている。すなわち、文禄5年(1596)、細川幽斎(1534−1610)による『闕疑抄』と、慶長14年(1609)刊行の古活字版『肖聞抄』という2つの注釈の校訂である。そして何より、嵯峨本『伊勢物語』に刊語を寄せたのも、通勝その人にほかならない。『徳川実紀』が「此卿当時に於て博学有職其右に出る者なし」と評すように、通勝は広く古典や和歌に通じた、当時最高級の碩学だった。ここでは、『源氏物語』と『伊勢物語』の双方にわたる通勝の知見が息子の通村にも継承され、それが源氏絵の新たな場面創出の動機となったことを推察したい。通村自身、『源氏物語』にかかわる著述を新たにものすことはなかったが、後陽成院女御・中和門院前子(1575−1630)や徳川家康(1542−1616)への講釈を請け負うほか、『伊勢物語』についても、三条西実条(1575−1640)や烏丸光広(1579−1638)とともに禁中での講釈を重ねている(注19)。23歳で通勝を亡くして以来、その学統を継ぐ古典学者として自立を強いられた通村が、通勝の業績に無自覚とは思えない。通勝の学識は、あらゆる場面で通村を助けただろう。以上が、久保惣本と嵯峨本に生じた図様往還を、中院家で蓄積された古典研究の結果と解する所以である。― 531 ―
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