鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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詣曼荼羅は30作例以上知られているが、共通の祖本が存在したと見られ、描かれる自然景や建物などのモチーフ自体は各作品とも似通っている。佐渡の2作品も基本的構成は他作例とさほど変わらないといえる。画面下部には海があり、そこには補陀落渡海の様子が描かれる(注4)。参詣道は向かって右下から始まり、関所を抜けると、浜宮、大鳥居や補陀洛山寺の前を抜け、関を通り、二の瀬橋を渡る。天満宮を拝して振架瀬橋を渡ると、山伏が左右に配されている十一文関を抜けて仁王門(大門)に至る。ここから右にコースをとれば、奥の院(三棟の建物が集まっている)や滝見堂の前を通り、那智大滝を臨むこととなる。滝には、滝行を行う文覚上人が矜羯羅童子・制多迦童子らに助けられる場面が描かれる。仁王門から右上の道(御幸道)を上がれば、三重塔に至り、その前では木曳きが行われていて、塔の右手には鳥居と大黒杉がある。そこから左へ進むと、如意輪堂や礼堂(ともに青岸渡寺の建物)、五社殿、八社殿などに囲まれた白石敷の斎庭があり、上皇の参拝の様子が描かれている(注5)。これを抜けると、勧進役を担ったとされる御前庵主の建物(板葺)があり、上へ上がると妙法山阿弥陀寺に至る。1)「那智参詣曼荼羅」(後藤家蔵、佐渡博物館寄託)について後藤家本は、掛幅で紙本著色、法量縦151.0cm×横163.1cmをとる。紙継ぎは、縦5段で、左上を始まりとして階段状に継がれている〔図3〕。一紙あたり縦34.4cm×横48.7cm平均の紙を使用する。現状、軸装されているが、折り畳んで保管されていたとみられ、折り畳み線は、縦方向に4本、横方向に7本ある〔図4〕。折り畳んだ場合は縦23.5cm×横34.2cm超の大きさになると想定される。本紙は折り畳み線周辺など部分的に欠紙が認められ、緑や白色絵の具の剥落が少々目立つものの、補筆はほとんど無く、画面全体として残りは割合よいといえる。また、建物や道、峰などにはその名称を墨書したとみられる紙が貼られ、76枚を数える〔図5〕。これらの貼紙がいつ頃添付されたかは不明で、剥がれた紙をあべこべに貼ってしまっている部分もまま見受けられるが、ある程度は堂舎同定や絵解きの際の参考となるだろう。本図は、明治40年(1907)頃まで続いていたという熊野山伏の寺院・熊野山聖王寺織田常学院の末流にあたる後藤家に伝わった。後藤近吾氏によれば、常学院は、応永元年(1394)、熊野本願流山伏・快瑞という者が熊野本地鏡像、熊野権現位牌、熊野観心十界図などを持って佐渡へ渡海、熊野権現を勧請して開いた聖王寺を基とするという。その後、天正17年(1589)、織田信長の娘とされる松姫君(清音尼)を守護して佐渡へ渡ってきた熊野山伏・快長が熊野山御幸の大絵図、観心十界の大絵図を伴っ― 538 ―

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