て聖王寺を継いだとされる(注6)。この「熊野山御幸の大絵図」が即ち、後藤家本と考えられている。また、後藤家には、本図とともに「観心十界図」、「清音尼位牌」(承応3年〔1654〕12月27日銘)、常学院本尊とされる「銅製鍍金懸仏」(如意輪観音坐像を中心にして周囲に熊野十二所権現本地仏を配す。室町期の作と目される)などが伝わっている(注7)。ついで、本図の描写を見ていく。[地面]全体に薄い明るめの黄土色を塗る。坂には2cm程度のこげ茶の横線を入れ、階段を表す。[建物]檜皮葺の建物は、大棟を金泥で塗り、墨で縁取って垂木には金泥を施す。屋根の縁は照りのある黒で塗る。壁は白、緑青、金泥などを使用する。基壇の側面にも緑青を用いるが、緑青は剥落している割合が多い。[樹木]主要な針葉樹をみると、幹を濃茶にし、葉叢は墨の上から薄濁緑を塗る。一部、葉に群青を使うものもあり、外側の葉は白緑の線で表現している。桜は、花弁部分の地を白く塗ったのち、白の点描を施す(一部には橙も用いる)。幹は白灰色で表し、幹の輪郭線を施す。梅は、幹を白灰色に、花弁は白・朱を混ぜた色で胡粉の輪郭線を施し、中心は白緑にする。松は、幹を輪郭のある濃茶色で塗り、点苔を白で表し、葉叢は墨線で輪郭をとり、緑を均一に塗る。[水]地に薄墨もしくは濁った薄青を用い、波紋には胡粉で弧状の線を連ねる。入筆は左からで、弧の最上段は胡粉を帯状に薄く塗る。波頭はC字を2、3回重ねたものを連ねる。[岩・土坡]比較的緩やかで太めの輪郭線を使い、色は黒緑色を使い、内側下部は薄い黄土色を呈している。[雲]無地・薄い胡粉・濁った薄青の三種類があり、いずれも墨で輪郭を取って、内側に胡粉線を沿わせる。[霞]内側を濁った薄青に塗り、墨の輪郭線の内側に胡粉線を沿わせる。[人物]顔貌は、丸い輪郭で、目は眠ったようにやや横長に描き、口を2本線で開いているように表しており、鼻には小鼻がある。露頂の部分は薄く墨を掃く。横顔は顎を前に突き出す形が多く、手足は線で指を表現している。着衣の裾部分はやや直線的で形式化が窺えるが、袖の部分は割合自然な弛みを表現している。着物の模様は横縞、三点模様、四菱文などがある。さて、本図について、根井氏は、「絵像や構図は京都西福寺本(那智参詣曼荼羅、以下同様)・滋賀西教寺本・国学院大学掛幅本・三重大円寺本と共通している」とする(注8)。ここではそのうち、精彩なデジタル画像が公開されている國學院大學図書館所蔵掛幅本「那智参詣曼荼羅」(以下、國學院大図掛幅本)と比較してみたい。まず気づくのは人物の酷似であろう。色合いは國學院大図掛幅本の方が鮮やかな濃い色を用いているものの、人物図像は引き写したかのように同じ体勢をした人物が多― 539 ―
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