して、工房Ⅱに属する吉田家本が挙げられるが、場面の描き方が工房間で影響関係があったことを示す事例と考え得るもので、注目に値しよう。3.まとめ本稿では、佐渡で調査することのできた二つの那智参詣曼荼羅を取り上げ、その図像描写から制作工房の比定等を行った。即ち、後藤家本は、國學院大図掛幅本との比較により同一工房の制作と分かり、また、他の工房との比較により、これまで指摘されている四つの工房とは別の、「工房Ⅴ」を設定すべきと考えた。一方、相川郷土博本は、従来指摘の工房のうち、工房Ⅰに属すると判断された。紙幅の関係もあり、制作年代については言及できなかったが、裏書に慶長元年(1596)の年紀があり、制作は16世紀半ば頃と想定し得る闘鶏神社本と同一工房である相川郷土博本は、清音尼が本図を持って佐渡へ来島したという天正17年(1589)頃を制作年代としても視野に入れるべきであろう。後藤家本は現時点では判断材料がほとんどないものの、明るい色調や全体的にやや整っていることから印象としてはさほど遡らないように見え、17世紀に入った頃と考えておきたい。いずれにしても、これからの参詣曼荼羅研究にとっては、より多くの作例について綿密な図像描写や図像の種類、作品の構造等の調査を行い、他の作品と比較をして工房分類や制作年代の同定などにつなげていくことが重要と考える。最後に、今回取り上げた2件を含め、熊野比丘尼(あるいは山伏)が廻国して布教をしたのちに土着し、所持していた那智参詣曼荼羅がその地に残ったという例は、岡山・武久家本や同・吉田家本など、多く存在する。こうした作例は、廻国をし、なにかしら特異性のあるモノ(参詣曼荼羅等の絵画であったり、名号や仏像であったりする)を媒介として庶民へ布教するというシステム、あるいはそれを担った人々の活動実態といった庶民信仰の一様相を伝えるという点で、重要なものだろう。特異なモノを介して布教するという点では、参詣曼荼羅の盛期とちょうど同時期(16世紀後半〜17世紀初期)に活躍した木食僧・弾誓(1552〜1613)が挙げられる(注14)。弾誓は、いまの岐阜県に生まれ、熊野や佐渡、信濃、箱根、京都と各地の山、洞窟、寺院を転々としながら、仏像を彫ったり、名号を書いたり、特異な念仏を唱えて庶民に布教して回った。現代ではあまり名が知られていない人物であるが、立ち寄った各地ではしっかりと信者を得て、400年を経た現在でも稚味のある作品がそこここに遺っている。弾誓の活動や遺品は、参詣曼荼羅と同時代の庶民布教のあり方や、庶民に受け入れられた美術を考えるのに格好の材料だと思われるため、今後とも探求していきたいと考― 542 ―
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