注⑴根井浄氏は、35作品を挙げている(同『補陀落渡海史(改訂版)』法蔵館、2008年)。ほかにアえている。28号、2011年メリカ・ギッターコレクションにも1点確認できる。⑵根井浄・山本殖生編著『熊野比丘尼を絵解く』法蔵館、2007年⑶額田雅裕「那智参詣曼荼羅にみる景観と現地」(和歌山市立博物館編『参詣曼荼羅と寺社縁起』展覧会図録、2002年、所収)を参照した。⑷補陀落渡海とは、観世音菩薩が住むと言われる補陀落山の浄土へ往生しようという信仰に基づいて、補陀落を目指して船で海を渡ること。⑸どの上皇の行幸を描いたものかは花山院、後白河院、後深草院など諸説あるが、後藤家本の表装上部には「日本第一熊野那智御山後深草帝御幸絵圖」と貼紙があり、さらにその下には「中代御幸年譜」と題して、醍醐天皇から後深草院までの熊野へ参詣した天皇・上皇と、貴族らを列記した貼紙がある。⑹後藤近吾「織田常学院記」『相川郷土博物館報』2号、1971年を参照。⑺本図とともに伝来した資料はこの他に、山号「熊野山」の書(藤原輔季書)、常学院本尊という「木造如来形立像」、「五七桐・菊文塗箱」、巫女の神楽道具と見られる「鉄鈴」・「銅鈴」・「冠及び飾り」、「念珠」(珠はムクロジュの実。親珠は木製。ほかに牛角、牙、寛永通宝を通す)、熊野比丘尼が被ったものと思われる「編笠」、「袖無羽織」(表:紅地繻子銀襴、裏:木綿)、「縮緬地赤紫袴」、「水干」、「鉦及び叩き棒」、「文書類11点」(文化13年〔1816〕〜明治30年〔1897〕のもの)がある。⑻前掲注⑵、後藤家本図版説明。⑼拙稿「善光寺参詣曼荼羅について─画面構成と制作背景の考察を中心に─」『フィロカリア』⑽それぞれの工房の描法の違いなどは前掲注⑼拙稿を参照されたい。⑾この譲渡に関しては、嘉永6年11月、常学院10代・長見が水金町遊郭楼主仲間に宛てた「熊野絵図」譲り状(風岡家文書)と、同じく嘉永6年11月、水金町楼主仲間11人が連署して、常学院に宛てた「熊野絵図」受け取り状(織田常学院文書。本文書は後藤家本「観心十界図」の裏貼り文書として伝わっている)が存在しており、文書中の「熊野絵図」が相川郷土博本「那智参詣曼荼羅」に比定されている。また、これらの文書の中で、遊郭楼主らは前述の松姫君(清音尼。「熊野比丘尼清音」とする)の末流が自分たち遊郭の始祖となったとしている。熊野比丘尼が布教の後、土着してやがて女を売るようになったという伝承を物語る資料としても興味深い。それぞれの文書は、前掲注⑵の290頁と291頁に翻刻されている。なお、近藤氏によれば、楼主仲間が「熊野絵図」を求めたのは、同年同月27日の清音尼200回忌追福に際してのことという(同『織田常学院記』)。⑿北見継仁氏のご教示による。⒀例えば、滝見堂の後ろの大きな建物や如意輪堂の屋根など。⒁弾誓については、五来重「塔の峰本『弾誓上人絵詞伝』による弾誓の伝記と宗教」(『箱根町誌第3巻』角川書店、1984年)や、宮島潤子『万治石仏の謎』(角川書店、1985年)、西海賢二『漂泊の聖たち─箱根周辺の木食僧─』(岩田書院、1995年)、田中圭一『地蔵の島、木食の島』(田中圭一、2005年)などを参照のこと。― 543 ―
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