広い腰帯をまとわせて重たげな印象を与える着衣表現は平安時代の像には見られない。この着衣形式はむしろ、たとえば寛喜元年(1229)の熊本・明導寺阿弥陀三尊像のうち右脇侍像など、13世紀以降の像に見られ始めるようになるものである。また腰帯そのものは特に珍しいものではないが、本像のようにその幅が広く、正面から側面・背面にかけてゆるやかに下がり、背面では臀部の下方を覆う形式もまた、やはり13世紀以降になって盛んにみられるはじめるものである。なお本像には本体材からつくりだされた足oの先端の一部が裁ち落とされ、木心部分が若干の陥没をみせているなど像底に修理の痕跡がみられるほかは、像容が変更されるほどの大幅な改変を伴うような痕跡はみとめられない。以上をまとめると、少なくとも、本像の制作はまずは13世紀以降と判断される。さらに本像の制作時期を絞り込むためにも、次に本像が安置されていた上賀茂神社の神宮寺観音堂の歴史について振り返っておきたい。二、上賀茂神社の神宮寺について上賀茂神社から乗願院へ「はじめに」でも述べたように、かつて上賀茂神社の境内にあった神宮寺観音堂は乗願院本堂として現存する(注5)。当院本堂内に掲げられた奉納額(注6)〔図2〕、「過去帳」(注7)等の記載内容を総合すると、おおよそ次のような経緯であった。当時の乗願院住職であった芝山彭譽は、天保元年(1830)の大火によって失われた本堂を再建しようと志した。明治元年の2月頃から浄財を集め始めたところ、折しも神仏分離令を受けて上賀茂神社の神宮寺観音堂の払い下げがあったため、多額の浄財をあててこれを購入した。同年の夏より移建を開始。翌2年の2月15日より乗願院境内で再建を始め、3月15日に棟上げ、5日後の19日には上棟式がおこなわれた。その年の7月1日には仏像を安置したという。現状、本堂は入母屋造で、桁行五間、梁行四間、向拝一間。正面中央は観音開きの唐戸で、その左右の両二間は蔀戸となっている。また後堂一間半は大正2年の改修工事の際に増築されたものである(注8)。蛙股には賀茂社ゆかりの堂らしく双葉葵の彫刻が施される。 神宮寺観音堂の変遷すでに諸氏が指摘されているように、上賀茂神社の神宮寺観音堂であった乗願院本堂は江戸時代初期の建築様式を伝える。上賀茂神社においては、本殿・権殿が文久3― 550 ―
元のページ ../index.html#561