年(1863)の再建になり、他の社殿は寛永頃の建立であるという(注9)。上賀茂神社蔵の『寛永造替遷宮記』によれば、社殿の寛永造替と同時期に神宮寺観音堂も立て替えられており、様式的観点からみた本堂の造営年代とも矛盾しない。このように本堂は江戸初期の建築であるが、そもそも上賀茂神社の神宮寺はいつ創建されたのであろうか。上賀茂神社における神仏習合の展開については嵯峨井健氏の論考に詳しい(注10)。本来、神と仏とは分け隔てられるべき存在であった。上賀茂神社には、早くも9世紀前半には神宮寺と考えられる聖神寺という寺が存在したが、この寺は境内から南西1キロメートルほどの少し離れた場所に立地していた(注11)。このように物理的にも精神的にも距離のあった神と仏が次第に接近し、境内に仏教施設が建てられるようになるのは11世紀以降のことである。境内に建てられた神宮寺に関する史料上の初見は、『小右記』寛仁2年(1018)11月6日条であり、少なくとも10世紀末頃から11世紀初頭頃には神宮寺が創建されていたことがわかる。その後12世紀にかけて、神社境内に次々と仏教的建造物が建てられ、仏教儀礼がおこなわれるようになっていくのである。本像を安置していた神宮寺が神社境内の南東にあったことは、15世紀頃の上賀茂神社境内の景観を描いた「賀茂別雷神社境内絵図」(上賀茂神社蔵)〔図3〕より知られる。絵図では、境内の南端、奈良社の北側の道を東方にすすむと神宮寺があらわれ、西から順に多宝塔・経蔵・観音堂・鐘楼の各建築物が東西一直線上に立ち並ぶさまが描かれている。このうち多宝塔については、南北朝時代初期に神主であった十楽院之神主・信久の代に供養がおこなわれたことが知られる(注12)。また経蔵には一切経が納められており、信久は虫干しのための料田を寄進したという。信久没後は彼の命日に供僧達が虫干しを実施した。この上賀茂神社神宮寺は応安6年(1373)に火災にあう。『社務補任記』(注13)によると、同年11月初頭の夜半、神宮寺観音堂より出火し、隣接する経蔵・鐘楼に延焼して甚大な被害を受けた。経蔵に安置されていた一切経は、境内の社殿近くにあった御読経所に移し、鐘楼は焼け落ちたが鐘そのものは損傷をまぬかれたという。ところがこの時、出火元であった観音堂の本尊、十一面観音像は焼失してしまったという。その後応永2年(1395)になって経蔵の立柱、さらにその2年後に上棟がおこなわれたことが知られる。観音堂再建に関する記述は、少なくとも『社務補任記』には見当たらない。以上をまとめると、上賀茂神社の神宮寺観音堂は、10世紀末頃に創建されて以降、少なくとも14世紀後半に一度、本尊像も焼失するほどの甚大な火災の被害にあった。― 551 ―
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