現在の堂は、寛永年間の社殿造替の際にあわせて再建されたもので、外観は江戸時代初期の建築様式をよく残しているとされる。三、神宮寺の本尊 ─まとめにかえて─前章でみてきた上賀茂神社神宮寺の歴史を念頭において、あらためて上賀茂神社神宮寺旧本尊の神光院十一面観音像について振り返ってみたい。神宮寺が創建されたのは10世紀末から11世紀初頭頃であることから、当初の本尊の造立もこれと同時期であった。史料の制約のために、創建後の観音堂についてはほとんどその歴史を辿ることが出来ない。『社務補任記』によれば、応安6年(1373)の火災により本尊が焼失したという。現在に伝えられる本像には焼損や大幅な修理の痕跡は見出せず、また第1章で確認したように13世紀以降の仏像に散見する諸形式がみとめられることからも、創建当時の本尊像は失われてしまったとみるのが穏当だろう。『社務補任記』の文言を信じるかぎり、応安6年まで神宮寺観音堂に安置されていた本尊像は、この時の火災によって焼失したと考えられる。そうすると本像は、応安6年以後のいずれかの時点でつくられたものということになる。『社務補任記』の記事は応永32年(1425)までで、応安6年以降応永32年の間の記事は経蔵の再建を伝えるほか、神宮寺観音堂の再建については全く触れられていないのは不審である。だが、経蔵が本堂である観音堂より先に再建されるとは考えにくい。観音堂も経蔵と同時期に再建されたとみるのが自然ではないだろうか。本像にみられるような、膝までを覆う長い腰布や幅の広い帯状の腰紐や、両肩にかかる天衣が両腕内側に沿って垂下する形式の組み合わせは、たしかに15世紀頃につくられた彫像にもよくみとめられるものであり、形式的にもこの頃のものとして齟齬はない。本像は正面から一見すると、本像は顔の輪郭やつくりなどが10世紀頃の仏像を想起させ、また一木造りであることなど、古様な点がいくつか認められることは興味深い。寛永造替の頃につくられたと考えられる『賀茂神宮寺観音縁起』(注14)〔図4〕には、上賀茂神社境内から東南五町ほどの場所にあった槻の木(ケヤキ)の霊木から老翁が「丸木作」の十一面観音像をつくったという伝説を伝える。この縁起には、一本の木から三体の像をつくるといったような、縁起によく採用される類型化されたモチーフも散りばめて、仏像の霊験を賛嘆している。荒唐無稽な内容が多く、もちろんその全てを信じることはできないが、上賀茂神社神宮寺の創建された頃の年号が記されてい― 552 ―
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