注⑴ 拙稿a「研究資料 京都・神光院 木造薬師如来立像」(『美術研究』404、2011年8月、69−81頁)・b「研究資料 京都・神光院 木造地蔵菩薩立像」(同408、2013年1月、95−103頁)。神光院の創建や仏像の移安経緯については、前者のaを参照のこと。⑵ 調査は2013年3月12日に行った。調査には、伊東史朗・佐々木進・井上一稔・岩田茂樹・津田徹英・寺島典人・松岡久美子・藤本真名美・高橋早紀子・大橋あきつの各氏の多大なご協力を得た。〔図1〕は山崎兼慈氏の撮影による。⑶ X線透過撮影は犬塚将英氏のご協力を得て実施した。⑷ 注⑴の拙稿aを参照。⑸ 昭和49年に乗願院本堂・山門等改修・修復工事が行われた。工事を施工された高木敏雄氏は、本堂が江戸時代の建築様式であることを看破された。この指摘を受けて寺は、当時、京都市文化財保護財団の専門委員であった赤松俊秀・村田治郎の両氏に鑑定を依頼し、「この本堂の建築様式は寛永を下るものではない」という鑑定結果を得たという(『開宗八百年記念 本堂・山門等改修・修復工事報告』所載の当時副住職であった柴田良稔氏の序文による)。その後、嵯峨井健氏や櫻井敏雄氏が、本堂の歴史的・建築史的価値について高く評価してこられた(柴田良稔「乗願院の沿革と本堂の成り立ちについて」〔北白川愛郷会『愛郷』26、1985年11月〕)。⑹ 明治2年奉納額には、観音堂払下げの経緯と購入のために寄進した人々の交名が墨書される。その経緯については以下の通り。なお、読点と改行を示すスラッシュは筆者による。字体は常用漢字を基本とした。 本堂建立之由来 一、抑当山本堂之草/創者、開基以来之世住/雖有志願未至、時経暦/ 数百歳霜、而爰予雖/為不肖徒、被命廿三世/依之、早世代之志願為達/ 辞他之請、而偏勧進檀/門之老若、与明治元戊辰/仲春始毎月一両度、出鉢/ 修行、而全令積自他之/善根要、爰至時哉、今年/世変、幸、上賀茂内神/ 宮寺観音堂以移于当寺、自同年季夏運贈/至初冬地開成形、翌巳年/ 早春命工匠虫喰朽替/繕、檀門之老女者洗木等/之抽丹精、老男老女/ 者土石運何材、而盡力依/不日而三月十九日上棟式調/同年七月一日奉入仏供/たり、ケヤキの「丸木作」であることを説明づけたりするなど、本尊に関する何らかの伝承が、断片的にではあれ、残存していたのではないかと想像される。本像は内刳り無しの一木造りでつくられていた。一木造りの像が盛んにつくられた平安時代前期においても、内刳りをほどこさない点は等身大の比較的大きな像では珍しく、本像は一木造りへの執着が非常に強いということが指摘できる。また形式的には同時代的な要素を取り入れながらも、顔かたちや胸部の起伏などは平安時代中期頃の像を彷彿させ、古像の姿を再現しようとする意図も感じさせる。このように、本像は神宮寺の本尊像の一例として貴重な遺品であるばかりではなく、神宮寺創建当初の像の姿を理解する手がかりをも与えてくれる実に稀有な存在だと言えるのである。― 553 ―
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