養、願以此功徳、天下泰平/五穀成就、檀門繁栄、現/ 当之利益奉蒙者也⑺ 『拾二番霊名記』(乗願院蔵)。本資料は万延元年より明治2年に至るまでの当寺の過去帳である。その末項に「一、当年本堂建立、上加茂社内神宮寺移観音堂。二月十五日手始、三月十五日上棟、七月朔日入仏。委細ハ別記写ス」とある。調査時、別記は見当たらなかった。⑻ 注⑸の前掲報告書所載の棟札墨書銘による。移築後、浄土宗である乗願院の本堂にふさわしいものとするため、建築内部空間にも変更が加えられた。本堂の中央には四天柱が立っており、本来この四天柱中央に須弥壇があったと考えられるが、現在は大正2年に増築された後方の一間に須弥壇が移され、同時に左右脇壇もしつらえられた(注⑸の工事報告書に所載の棟札墨書銘および『本堂大営繕記』〔乗願院所蔵、大正2年7月〕を参照)。⑼ 稲垣栄三「賀茂別雷神社・賀茂御祖神社」(太田博太郎編『日本建築史基礎資料集成』二、社殿Ⅱ、1972年、7−26頁)、櫻井敏雄「賀茂社の建築」(『日本の古社 賀茂社』淡交社、2004年、101−108頁)。⑽ 嵯峨井健「上賀茂神社系図の研究」(『神仏習合の歴史と儀礼空間』思文閣出版、2013年、214−⑾ 近世の地誌『山城名勝志』によると、聖神寺が上賀茂神社境内に移転したのは、寛文5年(1664)のことである。一の鳥居の内馬場の西南隅にあったという。神仏分離の時に、寺を廃して古道館という学校とし、その後に小教院となったが、明治22年に取り壊された(『洛北志 旧京都府愛宕郡村志』大学堂書店、1973年、184頁)。なお、延宝9年(1681)に幕府に提出した『賀茂注進雑記』には、上賀茂神社の仏教施設として聖神寺の名称が記される(嵯峨井氏注⑽論文)。⑿ 上賀茂神社の神宮寺の変遷については嵯峨井氏の論考を参照した(注⑽の前掲論文)。⒀ 須磨千頴氏執筆の解題・翻刻を参考にした(『賀茂文化研究』2、1993年、53−80頁)。⒁ 神光院には「賀茂神宮寺観音縁起」と内題のある縁起一巻が所蔵される。明治32年に作成された「神光院宝物古器物古文書目録」(注⑴拙稿aの註7を参照)によると、この縁起は京都市上京区油小路出水北の恒川永治郎氏から寄付されたものであるという。本文料紙は金銀の野毛・砂子・截金等で荘厳し、軸は八角水晶製とするなど豪華な仕立てとなっている。また表装には賀茂社ゆかりの双葉葵紋をあらわした裂地が用いられ、桐箱(後補)の表書きに「相伝 後西院天皇御宸翰 上賀茂神宮寺観世音菩薩縁起」と墨書される。縁起の本文は以下のとおり。読点と改行を示すスラッシュは筆者による。字体は常用漢字を基本とした。 賀茂神宮寺観音縁起 当社巽有一槻木、去五町余/伝而為霊木也、毎至六斎日/ 槻畔有読経音、静聞千手/多羅尼呪也、近見無物、遠聞/ 有声、故世貴為霊木、不厄樵/材幾年朽、自然為三段、本/ 一段飛来社頭、立非人力之/所及仰而愈貴、有数月/ 神官広友夢中詣社頭/有一翁倚段木、始以石扣/ 之、微言曰是堅実也、欲以此木/刻仏像復挙斧作之、其/ 鬼怪残也、見不忍呵、而乖/彼翁怒、獲沙投、忽入眼裏/ 苦暫而開、木翁共失也/覚性翌旦至見果如夢、謹而/ 不語、已経七夕、又爰一僧来/云、霊木之主兆汝所知与/ 我盟厚常居片岡山、々越合/而刻一像以不触立於膠穢/236頁。初出は2001年)。― 554 ―
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