鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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─原始民族の美術品の部門が新設された。メキシコの石の仮面とコスタリカの小品の横では、とりわけ象牙海岸の木彫像が不気味でグロテスクな表情を見せている。これらの作品を民族学の観点から観察するだけでなく、それらを純粋に芸術的目的に捧げられている美術館に受けいれることが、どれほど重要であることか!─(注4)フライヤーがここで強調しているように、オストハウスのコレクションの眼目は、これら「原始民族」の造形物を「芸術的」観点から鑑賞し展示することにあった。オストハウスはすでに1900年代からイスラムや日本の工芸品、バリのワヤン・クリ人形など非西欧の造形物を蒐集していたが、この記事はその蒐集対象がアフリカ、中南米にまで拡張されたことを示す。オストハウスはこの秋以降も「原始民族」美術コレクションの充実に努め、それは翌1913年には美術館の重要な一角を占めるまでに成長した。ここで、前出のシュタム論文で一部紹介されているものもあるが、1912年8月から翌年6月までのオストハウスのブリュメル画廊での蒐集活動について、筆者がオストハウス・アーカイヴで実見し得た資料を用い、より詳細に検討したい。フォルクヴァング美術館とブリュメル画廊の間で交わされた書簡等資料は7点現存し(注5)、その最初の一通は1912年8月24日付でブリュメルが美術館事務局に宛てたものである。ここには、「カール・ヴィート博士が、オストハウス氏が今パリにいると知らせてくれました」とあり、オストハウスの滞在先を知らせてくれるよう依頼している(注6)。当時オストハウスのアシスタントを務めていたカール・ヴィート(Karl With,1891−1980)は、後年非西欧美術史の著述家として知られるようになり、フォルクヴァング美術館の第二代館長となる人物である。彼の自伝には、この夏の初めてのパリ訪問時、オストハウスと親交の深かった建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの依頼で美術館開館10周年記念の贈答品を探していた時にブリュメル画廊を見つけた、という一節がある。─[頼まれた贈答品を]探していて、偶然ラスパイユ大通りで美術骨董商を営んでいたブリュメルという名前の二人の兄弟に行き当たった。たくさんの美術品の中から私は、(…)古代エジプトのブロンズの猫の像を選んだ。─(注7)〔図1〕― 560 ―

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