起させる。この書物では、メキシコやニュー・カレドニアなどの非西欧美術に加えて、中世美術、バイエルンの民衆芸術、子どもの絵といった様々な非−美術とモダン・アートの図版が並べられていた。事実オストハウスは、ミュンヘン新芸術家協会時代からカンディンスキーと交流があり、1909年6月にはヤウレンスキーとの二人展を、1912年7月には画家たちのかねてからの希望に漸く応えるかたちで青騎士展を開催している(注21)。『年鑑』に集められた作品は「外面的には互いに異質であるように見えても(…)互いに内的な類縁性がある諸作品」である、というマッケの序文草稿の一節は、フォルクヴァング美術館の「陳列の基本方針」と強く共鳴している(注22)。本稿では、この同時代的に共鳴する双方が共有していたヴィルヘルム・ヴィオリンガーの思想について考察したい。フライヤーもまた、ヴォリンガーの仕事に親しんだ知識人の一人だった。彼は月刊誌『芸術学』の1911年第12号に、ヴォリンガーの『ゴシック美術形式論』の書評を寄稿している。フライヤーは、「芸術、学問、世界観といった個々の文化現象間の内的関連性」というヴォリンガーの「人間心理学」的芸術学の重要性を次のように強調している。─彼[ヴォリンガー]は、新しい芸術学の最も重要な認識から出発している。それ1907年に初め博士論文として発表され、翌年書籍として出版されたヴォリンガーの『抽象と感情移入』は、ギリシャ=ローマの古典美術やルネサンス美術に代表される模倣的芸術に対し、エジプトやゴシック美術、あるいは部族美術における幾何学的・抽象的表現を、不安と不確かさに覆われた時代に置かれた人間の、超越的なものへの憧憬の現れとして位置づけた。『抽象と感情移入』と続く『ゴシック美術形式論』は、印象派やポスト印象派における形体の文節化と崩壊を、模倣的芸術の時代の終局に位置づけ、抽象的な芸術表現を産業革命以降の人間的不安の表出として説明する思想的枠組みとして、ノルデやキルヒナー、マッケやマルクらドイツ表現主義の綱領を支える理論として受容された(注23)。とりわけ、表現主義芸術家たちによるアフリカやオセアニアの部族美術や中世ゴシック美術の再評価を擁護する理論として機能した点は重要である。マグダレーナ・ブシャルトは例えば、カンディンスキーが『芸術における精神的なもの』に記した「内なる声の類似性(die Ähnlichkeit der innernStimmung)」(注24)の概念は、同時代の美術とプリミティヴ・アートの間に「精神的・心的領域における共鳴」を見出すことを可能にしたが、これはヴォリンガーの理論と直接関連していると指摘している(注25)。― 565 ―
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