を予見させるような独自のスタイルにまで到達した。しかしあまりに破格に過ぎ、時代を超えたがゆえに、その死後は19世紀末まで忘却されざるを得なかったのである。かくも多彩かつ複雑なエル・グレコ芸術を理解し、その成立要因を解き明かすためには、それぞれの地域、領域の専門家による複眼的な視点と洞察が欠かし得ないであろう。エル・グレコの芸術は、東方キリスト教のビザンティン世界とカトリック信仰の西ヨーロッパ世界に関わり、中世美術からルネサンスおよびマニエリスム美術へと飛翔し、また絵画のみならず建築や彫刻との境界をまたいでいるところに最大の特質とともに、理解の困難さが存するからである。その意味においてマリーアス教授以下、今回の研究メンバーによる報告はその要請に十分に応えてくれるものとなった。以下、概略を記しておく(敬称略。各研究報告の正確な詳細は、その後刊行されるシンポジウム議事録を参照していただきたい)。冒頭に、大髙が趣旨説明に代えて、「エル・グレコ像の変転と復権」と題した報告を行った。生前の流行作家ぶりが、一部知的なエリート層のパトロネージに支えられたものであり、その死後、名声はもとより、その存在までも急速に忘れ去られていったこと、その第一の理由が「エストラバガンテ(奇矯)な」(ジュゼッペ・マルティネスの言葉)画風にあったことが説明された。一方、エル・グレコ絵画の再発見は19世紀末、バルセロナのモデルニスモ(ムダルニズマ)の画家たちにより先鞭がつけられ、若きピカソもその一人であった。こうした19−20世紀の転換期に生まれた急激なエル・グレコ再評価の機運は同時並行していたアヴァンギャルド芸術の動向と連動したものであった。印象派やポスト印象派の台頭でルネサンス以来の古典的な美の規範は解体し、その後もフォーヴやキュビスム、表現主義などが相次いで誕生し、そうした運動と歩調を合わせるかのように、エル・グレコ再発見と再評価、復権の波は大きくなったのである。「セザンヌとエル・グレコは数世紀を隔てつつも、精神的な兄弟である。」(フランツ・マルク、1912年)以上のエル・グレコ復権とともに美術史の分野でも、20世紀を迎えて本格的、実証的なエル・グレコ研究が開始された。それは大きく4段階(カテゴリー)に分類される。1.コシーオ、サン・ロマンに始まる実証的、スペイン的なエル・グレコ像。2 .ウェセイの作品総目録の刊行と、対抗宗教改革の理念を視覚化したエル・グレコ像。3 .クレタ島生まれのギリシア人画家ドメニコス・テオトコープロスとしての画家― 595 ―
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