1957年8月、モワサック〜ラスコー〜レゼジー〜サン=サヴァン〜シヴォー〜モンモリヨン〜ポアティエ等。1958年3月、タヴァンおよびシュミレ=シュル=アンドロワ。1964年7月、モントワールおよびサン=ジャック=デ=ゲレ。1957年にはラスコーやレゼジーも訪れている点から、画家の関心はロマネスクのみならず、さらに遡った古代壁画にも及んでいたことが推測される(注7)。旧蔵書には1957年8月ラスコーで買い求めた2冊の本(注8)、アルジェリア南東部タッシリ・ナジェールの壁画を取りあげた本(注9)も含まれる。また1958年2月には、レオナルド《最後の晩餐》の全図や部分図、習作等の図版が掲載された本(注10)をミラノで入手。1965年には、中世オーストリアやユーゴスラビアの壁画を取りあげた本を入手している(注11)。これらの旧蔵書の存在は、藤田が各時代地域の様式を含め、壁画そのものに対する関心を長期に亘って持ち続けていたことを示唆する。ルネサンスから中世さらには先史時代へと遡る壁画に、彼がみていたものは何だったのか。近代以降のフランスでは、壁画はキャンバスに油絵具で描くことが主流となっていた。藤田がそれまでに手がけた壁画─パリ国際大学都市日本館壁画《欧人日本へ到来の図》、《馬の図》(ともに1929年)、《ブラジル珈琲館壁画》(1934年)、《秋田の行事》(1937年)など1930年代の壁画作品─は日本時代のものも含め、いずれもキャンバスに油絵具で描いたものであり、1966年の「平和の聖母礼拝堂」の壁画が藤田にとって唯一のフレスコ壁画の完成作となった。しかしその6年前の1960年2月に書いた書簡の一文には「八十号にキリスト降架の図 十三人の群像 クリスマスに仕上げ、一月に入ってキリスト降誕の図 八十号〔…〕十枚以上もかき度く将来シャペル等飾りたく〔…〕」(注12)とある。ここに記された作品は、現在パリ市立近代美術館に所蔵される《キリスト降架》(1959年)、《キリスト降誕》(1960年)を指すと考えられることから、当初はタブローによる壁画を検討していたことが推察される。その後、1964年頃からフレスコによる制作が試みられるようになる。「壁画の小作品をイタリーの昔の技法でやって見てます、洗ってもとれません 油えと異って面白い仕事です」(注13)という画家の言葉からは、尽きせぬ制作意欲とともに、作品の永続性を願う思いの一端もうかがわれる。ブラジル珈琲館の壁画は、国際情勢悪化のあおりを受けて1940年に取り外されていた。恐らく藤田は、ルネサンスから古代にまで遡り、その場所で永く生きる壁画の有り様にふれるなかで、自らの安住の地となる礼拝堂のためにフレスコの技法を選んだのではないかとも考えられる。様式の面で作品を比較すると、藤田のフレスコ画制作初期にあたる1964年の習作《聖母マリア》では、明るい白を背地に褐色系の濃色を用いた色調、明確な輪郭線と― 50 ―
元のページ ../index.html#61