版画により『身分と手職の本』と略称される本が出版されている(注24)。また19〜20世紀に活躍したイギリスの写真家ジョン・トムソンや同じくフランスのウジェーヌ・アジェ、ハンガリー出身でパリに活躍したアンドレ・ケルテスは、路上で商う人々を被写体とした連作を残した(注25)。藤田がこれらの作品を実際に目にしていたかどうか現段階で定かではないが、『しがない職業と少ない稼ぎ』はこうしたヨーロッパにおけるいわば「職人づくし」の系譜に連なる作品と言え、ヨーロッパの伝統に回帰する志向の一端をうかがい知ることができるのではないだろうか。戦後の藤田の関心対象を追うと、かつての自らの体験に立ち返る傾向がみられる。藤田は、礼拝堂の壁画制作の真っ只中にあった1966年7月9日、ランスで5冊の宗教美術関連の本を入手していて、その中にアヴィニョン派に関する本(注26)があった。古くから通商の要地として栄えた南仏のアヴィニョンは、14世紀初頭に教皇庁が置かれシエナ派の画家たちが招聘された。15世紀にはヨーロッパの十字路として人々が集まり、周辺地域で南北ヨーロッパ、とりわけフランドルとイタリアの様式が混交した絵画が誕生した。このアヴィニョン近くのヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンは、藤田が1918年8月に滞在した町だった。林洋子氏は、この滞在が藤田にとって宗教画展開のきっかけとなったこと、1918年頃からの藤田の人物画にみられる引き伸ばされた身体描写や柔和な線、繊細な細部描写に、《ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ》などプリミティフ・フランセの影響が強いことを指摘している(注27)。宗教画を専らとするようになっていった晩年の1966年になってこの本を入手した背景に、かつて大きな示唆を得た作品群と宗教体験に回帰する思いがあったとは考えられないだろうか。ほかにも、本稿Ⅰ章2節で言及したブルターニュは渡仏した藤田が1917年に初めて避暑を送った土地で、藤田は翌1918年に《ブルターニュのカルヴェール》(注28)を制作している。Ⅰ章3節で言及したレゼジーは1915年6月川島理一郎とともに移住した土地で、藤田はここに暮らす間「原始時代の絵画を研究出来た事は幸だつた」と後に記している(注29)。また一時フランスへ戻った1939年にも猪熊弦一郎夫妻とともにレゼジーに滞在し制作もした。かつて熱心に研究を重ねた古典古代に回帰することは、藤田のなかで自らの体験に回帰することと深くつながっていたのだろう。結びにかえて藤田嗣治の戦後作品に多くみられるようになる宗教的、寓意的な主題には、共通し― 53 ―
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