れる。いずれの文様も大型で施されているのは真言密教系の仏像にもみられると指摘される(注5)。特に貞観9年(867)頃作の東寺西院御影堂不動明王像の彩色文様と共通することから、制作年代もこの頃が妥当と考えられている。3.広島・御調八幡神宮女神坐像〔図4〕上衣に大袖とみられる内衣と大袖の衣を重ね、背子を着け、下衣は裙をはく。着衣の形としては松尾大社像と類似するといえる。本像の着衣には古様の翻波式衣文が刻まれているが、この衣文が室生寺釈迦如来像に近いことが指摘されており、制作は9世紀半ば頃とみられる(注6)。4.奈良・薬師寺八幡三神像のうち神功皇后坐像・中津姫命坐像〔図5〕〔図6〕着衣形式は両像とも共通し、上衣は内衣の上に大袖の衣を重ね、その上に袖なしの背子を着け脇下には天衣がみえる。下衣には裙をはく。胸元から二条の紐が左右に垂下しているのは背子の紐とされてきたが(注7)、背子に紐が着く例は本像しかないことから、むしろ裙の帯ではないかと思われるため次章で検討したい。本像は休ヶ岡八幡宮の神体として祀られた八幡三神像中の二体であり、同社が薬師寺別当栄紹によって宇佐から勧請された寛平年間(889〜897)の造立と考えられる。5.和歌山・熊野速玉大社夫須美大神坐像〔図7〕着衣は上衣から、内衣を左衽に着けその上に大袖の衣と背子を重ね、下衣は裙をはく。熊野速玉大社は貞観元年(859)に従五位上に叙され(注8)、それ以降、急速に神階が加えられて延喜7年(907)には従一位に到達した(注9)。昌泰3年(900)には宇多法皇の行幸がありその信仰の高まりが注目される。そのような中で神像が制作されたと考えられ、年代は9世紀末から10世紀初めとされる。6.広島・御調八幡宮女神坐像(八幡三神像のうち)〔図8〕着衣は上衣から、内衣と大袖の衣を着け、U字状の襟の背子を重ねる。下衣は裙をはき、腰で帯を縛り結び目を表す。先の3.女神坐像〔図4〕と持物の執り方以外は同形なので、それをもとにしたことは間違いないだろう。制作時期は、丸みのある体躯や背面のほとんどを平らに仕上げる点などが熊野速玉大社女神像に通じることから、9世紀末から10世紀初め頃とみられる。― 59 ―
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