鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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紀以降の女神像とそれ以前の女神像着衣は、形式的に大きく異なることを示しているのではないだろうか。ではこの相違は何を意味するのか。それを明らかにするため、次に奈良時代の服制と吉祥天像の着衣について考察する。Ⅱ.奈良時代の服制と吉祥天の服制女神像は、仏像のように経典や図像等で一定の規定がないため、まず奈良時代の女性の服制との関係性を考え、さらに女神像が成立する以前に仏教の女性神として信仰を集めた吉祥天像の着衣形式との相違をみていきたい。1.奈良時代の服制と女神像の着衣形式大宝元年(701)に発令された大宝律令には女子の服制が定められていた。『令集解』巻29〈衣服令〉(注10)に規定される女性の衣服をまとめると、礼服は身分によって色・素材の相違があるが、おおよそ宝髻、衣、紕帯、褶、裙、襪、潟で、朝服は礼服の宝髻、槢、潟を除いたものを着用した。これらの品目については関根真隆氏が『奈良朝服飾の研究』(注11)で詳細に述べているのでそれに沿って確認していきたい。まず、宝髻は髻の元を金玉で飾ったものとされる。紕帯は『令集解』に「謂、在傍為紕也」とあり、女性専用の縁飾りのある帯であったとされる。褶は裙の上に重ねた腰回りの装飾物の衣。裙はスカートに相当するもので、いくつかの裂を繋ぎ合わせたものを裙としている。■は足形の布を縫い合わせた靴下で足袋のようなもの。潟は裂でつくった飾りのついたものと解されている。次に、日本の礼服は中国唐代の服制を取り入れたと考えられるため、その内容を窺ってみると、皇后・皇太子妃・命婦は外衣に大袖の衣(褘衣・鞠衣・踰翟・翟衣・礼衣)、その下に内衣(素紗中単・青紗中単)、下衣として裳と蔽膝を着けたとされる(注12)。唐代の礼服は大袖の衣を一番外側に着けたと考えられていることから『令集解』には規定はないものの、わが国の礼服も同様に大袖であったと推測される。一方で朝服は礼服とは異なり、執務を目的とする公服であることから、大袖ではなく実務的な筒袖であったことが想定されている(注13)。平安時代初期の服飾は奈良時代とあまり変化はないとされるが、弘仁9年(818)の詔には男女ともに衣服が唐風に改められたとあり(注14)、より一層唐式が求められた。さらに弘仁11年(820)にも「皇后以帛衣為助祭之服。以擣衣為元正受朝之服。以鈿釵礼衣為大小諸会之服」とある(注15)。この擣衣や鈿釵礼衣は中国唐代の礼服に見ることができ、いずれも大袖の衣とみられる(注16)。― 61 ―

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