ところで、先に挙げた薬師寺神功皇后像・中津姫命像に見える胸元から二条に垂下する帯は、これまで背子の紐とされてきたが、唐代の服飾には胸まで締めた裙の帯を長く垂らしていることが確認できる(注17)。両者は同類の帯であると考えられ、『令集解』にいう「紕帯」ではないだろうか。また「背子」は律令に規定はないが、ごく限られた女性の冬衣服とされることから(注18)、一般に礼服として用いられた装束と思われる。以上のことから、9世紀代の女神像が身に着ける大袖の衣は、礼服と考えるのが妥当であり、さらに「背子」や「紕帯」などを身に着ける点は、奈良時代から平安初期の女性装束と一致し、女神像と現実的な女性像の服制との共通点がみえてくる。2.吉祥天像の着衣と女神像の着衣形式次に奈良時代の吉祥天像の作例中、着衣が明確に分かる東大寺・吉祥天立像(塑造)〔図16〕、法隆寺・吉祥天立像(塑造)〔図17〕、西大寺・吉祥天像(木心乾漆造)〔図18〕、薬師寺・吉祥天像(麻布著色)〔図19〕の着衣形式をまとめると以下のようになる。上衣は一番下に筒袖の衣、その上に大袖の衣、さらに襟縁にU字状の飾りと袖に襞が付いた半袖の衣を重ねている。その上に、東大寺像は「天衣」、法隆寺像は「披肩」、薬師寺画像は「背子」といった布を肩に掛けていることが確認される(注19)。下衣は裙と蔽膝である。襟縁や袖に飾りの付いた衣については、『諸説不同記』巻第6の「功徳天」の項に「被蓋襠縵衣」とあることから(注20)、この衣は「蓋襠衣」と称され、また蓋襠衣のラッパ状に開いた襞の付いた袖飾りは「鰭袖」とされる。10世紀以降の女神像に見られる装飾的な衣はこの蓋襠衣と鰭袖であり、天部像の着衣が取り入れられたとみられる。奈良時代の吉祥天像の着衣については、これまで奈良時代・唐代の礼服が源流であるとされてきたが、それらとは大きく異なることが指摘される(注21)。むしろ天女や舞女の着衣と奈良時代の吉祥天像との共通性が明らかとなっている(注22)。つまり敦煌莫高窟の初唐・盛唐の作例中の天女(注23)や舞女を表わしたとされる永青文庫所蔵の加彩女子俑の着衣が、吉祥天像と近似すると考えられのである(注24)。以上のことから奈良時代の吉祥天像の着衣は世俗的な女性装束とは一致せず、天女や舞女といった非現実的かつ神聖的な女性像の着衣が源流であるとみなされる。さて、蓋襠衣と鰭袖は10世紀以降の女神像に一般的に認められるが、それ以前の初― 62 ―
元のページ ../index.html#73