鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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期女神像には確認できない。それらは奈良時代の吉祥天像には表現されているので、女神像が初めから吉祥天像をもとにしたならば同様の表現が当初からみられるはずである。したがって、それが見られないということは、初期女神像に現実的な女性を表現する意図があり、あえて天部の服制を用いなかったと考えられるのではないか。ただ、東寺女神坐像が一番上に着た背子とされる衣は、背面〔図13〕を見てみると前面と同様にU字状をしており、このような形状の背子は他の女神像には見られない(注25)。一方〔図16、17、18〕の吉祥天像を見るとその前面には同じようなU字状の帯があるので、これは蓋襠衣の襟縁飾りではないかと思われる。しかし鰭袖がない点は吉祥天像のように完全な形とはいえないが、印相を結ぶ手勢や結跏趺坐など他にも仏教要素が多いことからも天部像の着衣を参考にしたと考えられ、東寺を発端として天部像の着衣形式が取り入れられていったのではないかと推測できる。このようにみていくと、9世紀代の初期女神像が造立されたとき、当初から吉祥天像などの天部像をもとにしたとは考えにくく、そのモデルは当時の現実的な女性像と推定され、その中でも特に礼服がもとになったと考えられる。そして東寺像のように仏教色の濃い環境で成立した像には、徐々に天部形の要素が組み込まれていったのではないだろうか。次に着衣形式の変化を神仏習合の状況と併せて考察したい。Ⅲ.奈良時代後期〜平安時代前期の神仏習合と女神像の着衣奈良時代後半に展開した神仏習合の実態は、主に護法善神と神身離脱の形式に当てはめることができる。古代社会では、疫病流行・天変地異・自然災害など自然の脅威を神の怒りや祟りによるものと考えた。このような災害の原因は、神が神の身を受けた宿業による苦悩のあらわれであるとされ、悩める神の願いは仏道に帰依し、「神身離脱」をはかることで宿業から免れることであった。そのために人々は神のための神宮寺の建立、仏像造立、経典書写などの作善を行ったのである。天平宝字年間(757〜765)頃に成立した『家伝』下の藤原武智麻呂の伝記(注26)には、気比神が神身を受けた苦悩からの解脱を願い、神のために神宮寺を建てたことが記される。伝記には霊亀元年(715)のこととするが、伝記が成立した8世紀半ば頃の思想を反映したものとされる。こういった神前での仏教宗儀は「神は仏法を悦び受ける」という思想に基づくものであり、8世紀半ばの神仏関係を表わしている。また、八幡神は東大寺の大仏造営に際し、天平勝宝元年(749)に京に向かった。宮南に新殿として造られた梨原宮では神前で僧による悔過が行われ、神に対して仏教の宗儀が手向けられた。さらに大仏造営が難渋している時、八幡神は託宣をして霊力― 63 ―

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