でその造営を助けたことも知られている。この一連の行動は、「神が仏法を尊び護る」という思想によるものと考えられる。また「神は仏法を尊び護る」という思想は、天平神護元年(765)11月条の称徳天皇重祚の宣命に現れる(注27)。称徳天皇は、僧形法体のまま大嘗祭を主催し太政大臣禅師の道鏡が列席することに批判的な意見に対し、『金光明最勝王経』の「護法善神」の教理を借りて、仏法を護り尊ぶのは神々の本意であるとした。しかし、ここでの護法善神は一般に梵天・帝釈・四天王など仏法を守護する諸天鬼神のことであり、特定の神祇を新たに加えることには既存の教理に合わない点、我が国の神祇は長く偶像を持たなかった点にもあるとされ、仏教の護法善神と同質の存在としては認識されなかった(注28)。平安時代に入ると最澄や空海など遣唐使に従った僧は航海の安全を神仏区別なく祈願した。最澄は「業道の苦患」で神身離脱を求める香春神に対して法華院を建て法華経を講じ、香春神はその見返りとして「我当為求法助昼夜守護」や「海中急難時、我必助守護」と宣している。ここでは「神身離脱」と「神は仏法を尊び護る」という思想が読み取れる。また空海は『性霊集』巻6に所収する「為藤中納言大使願文」(注29)で、遣唐大使藤原賀能が延暦23年(804)に唐に赴く途中暴風雨にあった際に、冥護を求めて天神地祇のために『金剛般若経』の書写を祈願した話を載せる。そこで賀能は祈願通り写経を行うとともに「伏願以此妙業崇彼神威」と述べ、その報謝として写経の功徳で神威を崇めると言っている点が注目され、ここに「仏力をもって神威を増す」という思想が登場したと中井真孝氏の指摘がある(注30)。同じく中井氏は、同書巻9所収「高野建立初結界時啓白文」(注31)において、空海が弘仁7年(816)高野山に伽藍を建立した時、諸仏・諸尊・諸天と国中の天神地祇と山中地水火風空諸鬼等に対して結界の加護を祈念したことに注目された。ここで空海は寺域内の神々を梵釈四王竜神等の護法諸天と並べて正法を護る「善神」とみなし仏法擁護の役割を課したとみなされている。これは前代の「護法善神」思想を一歩進め、神祇を護法善神と等質の存在と認識したことに意味があり、神観念の重大な変化ととらえられた。このように、空海は神祇を護法神として密教の世界に取り込み、「神は仏に仕える」という新しい関係を確立したのである。初期女神像の中でも空海との関わりが大きい東寺八幡女神坐像は、同時代の他の像より仏教色が強いことがわかる。着衣に関しては吉祥天像の装束と類似したU字状の衣をまとっている。八幡神は早くから、菩薩号を称して仏教化していたことから空海の密教的な護法善神の思想をいち早く取り入れていったことがうかがわれる。このように空海は新しい神仏関係を築き、その思想が浸透する前後では神に対する― 64 ―
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