注⑴ 池本ゆい「女神像の服制・髪型について」『帝塚山大学大学院人文学研究科紀要』14号,2012⑵ 注⑴の池本氏の論考では吉祥天像の服制と類似点はあるがそのまま模倣したのではないとされる。⑶ 伊東史朗編『松尾大社の神影』松尾大社,2011年⑷ 岡直己氏は貞観元年(859)から寛平3年(891)の間に制作されたものとし(『神像彫刻の研究』角川書店,1966年)、丸山士郎氏は『本朝月令』の記事から承和期(834〜848)としている(「初期神像彫刻の研究」『東京国立博物館紀要』40号,2004年)。⑸ 岡直己『神像彫刻の研究』角川書店,1966年⑹ 伊東史朗「御調八幡宮の神像について」『佛教藝術』269号,2003年⑺ 奈良六大寺大観刊行会編『奈良六大寺大観(薬師寺全)』第6巻,岩波書店,2000年⑻ 「紀伊国従五位上熊野速玉神、熊野坐神並従二位」(『三代実録』貞観元年5月28日条)⑼ 「従紀伊国正二位熊野速玉神従一位、又従二位熊野坐神正二位」(『日本紀略』延喜7年10月2日条)⑽ 『新訂増補国史大系』24巻,吉川弘文館,2000年⑾ 関根真隆『奈良朝服飾の研究』吉川弘文館,1974年⑿ 『唐書』輿服志、『新唐書』車服志による。⒀ 注⑾関根氏著書⒁ 『日本紀略』弘仁9年(818)3月23日条⒂ 『日本紀略』弘仁11年(820)2月2日条認識が異なっていたことが推測される。それは前章Ⅱでみた着衣形式にも反映したのではないだろうか。9世紀代〜10世紀初の女神像は東寺像を除き、現実的な女性の服装である礼服をもとにしたと考えられる着衣形式をしている。他方で10世紀代の女神像は蓋當衣や襟飾りなど、吉祥天像と共通する着衣に変化した。これは、仏教の側が神への信仰や神祇秩序を利用して、神を仏教護持の存在として包摂していく過程が見えてくる。つまり、女神像の造立当初は現実の氏族女性がイメージされていたが、やがて神が仏に仕えるという思想のもと、密教世界の天部の一員として神が認識され、女神の着衣が徐々に天部像に近づいていったと考えられるのである。まとめ以上、これまで一般に「唐装」や「唐装束」として一括りにされてきた女神像の着衣形式は、二系統の着衣に分けられることが明らかになった。それは現実的な女性の礼服に即した形式と吉祥天像がもとになった蓋當衣を身に付ける形式であり、神仏習合思想の変化にともない変化したことを示していると思われる。年― 65 ―
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