富本の友人でありパトロン的な存在であった野島康三、伊藤助右衛門(注10)をはじめ、親密に交流した美術家らの資料と、遺品写真を照合した。野島康三展の図録(注11)に掲載された大正10年(1921)、13年(1924)の野島康三邸での展覧会風景や、昭和5年(1930)の益子での制作写真が、遺品写真にあることを確認した。また、伊藤助右衛門のご遺族のご教示により(注12)、伊藤家やその周囲の風景を写したものが遺品写真に含まれることが判明。さらに、伊藤が昭和9年(1934)7月に私刊した『富本憲吉君作品写真集』(注13)の写真も、遺品写真の中に25枚あることを確認した。⑤ご遺族を含めた関係者への聞き取り調査富本憲吉の著作権者海藤隆吉氏から、多くのご教示をいただいた。海藤氏は富本の次女陶氏のご子息であり、富本が工場(こうば)と称した祖師谷の工房で幼少期を過ごされた。祖師谷の自宅室内、庭、工場、窯などの写真の判明は、海藤氏のご協力によるものである。また、富本憲吉記念館(現在は資料館)館長の山本茂雄氏には、富本の作品、交流関係、資料など、全てにおいて多くのご教示をいただいた。富本憲吉記念館は昭和49年(1974)に安堵町の富本本家(生家)の敷地内に開館。現在でも当時の建物の一部やその面影を今に伝える。大和時代の生家や周辺写真と類似する場所、遺品写真のうち作品の年代特定など、山本氏により多くのことが判明した。なお、〔表1〕に記したとおり、富本の京都時代(戦後)の写真は、大和時代、東京時代に比べると、33枚と極端に少ない。富本は昭和21年(1946)に一切の公職を退いて、東京の家族とも離れ、安堵の生家で生活したのち、晩年を京都で過ごした。そのため、京都時代の写真は東京のご遺族のもとにはほとんど遺されていない。2 遺品写真の詳細 ─未公開写真を中心に細を記してみたい。2−1 留学時代富本がイギリスへ留学した明治41年(1908)11月から、明治43年(1910)4月までの滞在期間中の写真が、2冊のアルバムに収められている。この他に、個別の写真数枚があるが、これらは本アルバムから剥がれた写真と思われる。アルバムの随所には富本自筆の文字や装飾が施され、美しいレイアウトが特徴的である。写真は友人たち約1400枚に及ぶ遺品写真のうち、今後の富本研究に重要な17点を取り上げ、その詳― 72 ―
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