とのスナップのほか、イギリスやパリの風景を撮影したものが多い。なお、明治42年(1909)12月から帰国直前の翌43年3月頃まで、富本はイスラム教建築の調査のためインドへと旅しているが(注14)、この間の写真は本アルバムの中には見られない。そのため、アルバムの大半は明治42年(1909)に撮影したものと思われる。〔写真1〕は左から富本、ひとりおいて洋画家の白瀧幾之助、柳敬助である。白瀧幾之助(1873−1960)は、先に留学していた富本の友人南薫造を介して知り合ったと考えられ、大正3年(1914)に富本が尾竹一枝と結婚した際には仲人を引き受けるなど、その後も長く付き合いが続く富本の友人である。また柳敬助(1881−1923)も、滞欧中の明治42年(1909)に知り合い(注15)、富本の結婚後も柳が安堵の家を訪ねるなど、親密に交際を重ねた。なお、不明人物の特定は出来ないが、この人物は留学アルバムの随所に写真があるため、同じ下宿にいた日本人(注16)の可能性が高い。〔写真2〕は留学アルバムの中では珍しい椅子の写真で、同じ椅子の側面を写したものが『美術新報』第11巻第11号(注17)に掲載されている。富本の記述によると「ロンドンの下宿で私が好きで使っていた樫製の椅子」(注18)で、室内装飾の研究が留学の目的であった富本は、興味を抱いてこれを撮影したと考えられる。この他にも、同様の椅子や留学中の下宿先と思われる室内を写した写真がいくつか存在する。2−2 大和(安堵)時代大和時代の写真はアルバム2冊に収めたものと、個別写真が約100枚ある。富本は大正3年(1914)10月27日に、雑誌『青鞜』で「新しい女」として注目を集めた尾竹一枝と大恋愛の末に結婚した。翌年3月には安堵村の生家に戻り、生家近くの畑地に本焼きの窯を併設した新居を建設。この家で大正4年(1915)8月生まれの長女陽と、大正6年(1917)11月生まれの次女陶を加えた、家族4人で暮らす。自宅兼窯場は「つちや」と呼ばれ、その内部は「寝室、茶の間、台所、書斎とべーウインドの如き三畳の椅子のある室と、轆轤をおく四畳の工房と窯場と、全部耐火煉瓦を以てせられたる内方三尺余りの窯」(注19)だったという。〔写真3〕は、富本と一枝夫人、長女陽、次女陶を写した家族写真である。撮影場所は書斎と思われ、背景の棚に富本が最初期に制作した器などが並び、右手前には「インドの椅子」(注20)と、富本制作の「青磁大花器」が見える。「青磁大花器」は雑誌『美術旬報』(注21)でも紹介された作なので、当時の富本にとり自信作のひと― 73 ―
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