つであったことが想像される。同じ頃、自宅室内で窯出し後に撮影したと思われるのが〔写真4〕である。富本は大正6年、7年と2年連続で「富本憲吉夫妻陶器展」を開催しており、作風から見てこれらはその頃の作品と考えられる。大半は現存が未確認の作品であるため、大正期の富本の陶芸活動を知るうえで貴重な資料といえる。〔写真5〕は、自宅での一枝夫人と娘たちのスナップである。テーブルクロスが敷かれた上に、富本作のマグカップやポット、皿が並び、壁面上部には富本の自刻自摺りの版画「登科壺図」(明治44年頃)と、同じく自作版画(大正3年頃、『芸美』『富本憲吉模様集 第一』に掲載)が見える。彼女らの背景の屏風は「薫造、敬助、孝太郎、秀堂、バナード(又はバナヽの皮)諸先生の手紙に長原担(六歳)の壱年間の草花(三十枚)を配し裏に自作野菊模様を雲母ずりとしたもの」(注22)と考えられる。富本家の朝食は、パンにコーヒーや紅茶という西洋風の食卓であったので、一家のモダンな暮らしぶりを伝える一枚である。〔写真6、7〕は創作模様の資料とみられる写真である。〔写真6〕の左側は建築家の笹川慎一(1889−1937)で、右側には富本の著名な模様の一つ「薊」が大きく写る。〔写真6〕の薊をもとにしたと思われるのが、『富本憲吉模様集三冊』に掲載された「薊模様」〔図1〕である。また〔図2〕は富本装幀による書籍だが、これも〔写真6〕の薊を反転させて用いたと想像される。同じく創作模様の資料写真のうち、最も多く写されているのが、安堵村の栴檀「老樹」〔写真7〕で、さまざまな角度から写した5枚の遺品写真が存在する。『富本憲吉模様集三冊』にも〔写真7〕と同じ方向から見た模様〔図3〕が掲載されており、陶板〔図4〕などに用いられた。また〔写真6〕に写る笹川慎一は、大和時代の写真の中で最も多く写る富本の友人である。この他にも人物が特定出来ない多くの友人知人の写真があるが、不思議なことに、同じ頃安堵を訪ねたバーナード・リーチや柳宗悦の写真は存在しなかった。さらに〔写真8〕は、大正6年(1917)2月和歌山県新宮の西村伊作邸を富本一家が訪ねたときの写真である。富本と西村が親しく交流していたことは知られているが(注23)、これまでこうした写真は見付かっておらず、興味深い資料といえる。〔写真9〕は、大正10年(1921)5月安堵の生家で開いた展覧会の様子と考えられ、当時制作された作品の一端を知ることが出来る。― 74 ―
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