鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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2−3 東京(祖師谷)時代富本一家は昭和2年(1927)4月、東京の祖師谷に新居を構え移り住んだ。家は富本自身の設計により、約700坪の南斜面に50坪ほどの平屋建てで、日本間のない西洋風の家であったという(注24)。この時代にもアルバムが1冊作られており、約170枚の写真が収められている。富本は昭和10年(1935)頃に新しいカメラを購入しており(注25)、本アルバム写真の大半がこの頃に撮影したものと考えられる。写真の多くは、祖師谷の自宅室内、工場、窯場、庭で、この他に地方窯での制作風景などが含まれる。〔写真10〕はアルバム外の写真で、祖師谷の自宅テラスで写されたもの。一枝夫人の腕には、昭和2年(1927)1月に生まれた長男壮吉氏が抱かれている。人物は左から中江百合(1892−1969)、福原信三(1893−1948)、野島稲子(野島康三夫人)、富本、不明人物(福原夫人か)、野島康三である。料理研究家の中江は、祖師谷の富本家とは隣人関係にあり、富本の後援者のひとりでもあった。富本の窯出し後に自宅で展覧会を開くなど極めて親しい間柄で、富本家とは家族ぐるみの付き合いであったという。また資生堂の初代社長である福原は、野島と同じ写真家であり、富本の後援者であった。本写真は祖師谷の自宅完成後、富本の後援者たちを招いた際に写した、記念写真だったのかもしれない。〔写真11〕は昭和11年(1936)頃の祖師谷の工場での制作風景である。富本は「陶器工程図」(『陶器講座第九巻』雄山閣、昭和11年発行)の中で、祖師谷での制作風景の写真を多数掲載しており、〔写真11〕は未掲載写真ではあるものの、別角度から撮影した同書の写真の一部と考えられる。この他にも、祖師谷での制作風景写真は、昭和10年代のものが数多く存在する。〔写真12、13、14〕は、今回新発見となる石川県の九谷焼、北出塔次郎窯での制作写真である。これらはアルバムに収められたものの一部で、この他にも北出窯や新潟県の伊藤家周辺など、北陸付近を写した写真約80点がアルバムに収録されている。北出窯での作陶は、富本が昭和4年(1929)から始めた地方窯での制作活動の一環であったが、ここでの滞在は半年間という極めて長い期間を過ごしている。新しいカメラを持参した富本は、地方窯の日常を興味深く、精力的に写したのであろう。〔写真12〕は北出窯の入口を写したもの。現在の北出窯は、母屋や窯が建て替えられ、建物の配置も異なるが、本写真の様子は『日本のやきもの 九谷』(淡交社発行、昭和49年)の巻頭図版にある北出窯の門前と一致する。〔写真13〕は北出窯の制作風景で、右に見える特徴的な陶製の像は、この頃九谷各― 75 ―

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