どのように呼称されたのかが、色票と共に示されている。英国Winsor&Newton社の絵具では、「VandykeBrown」が「うあんだゐき鳶」、「Sepia」が「煤橄欖」、「Roman Sepia」が「羅馬せぴあ」、「Bistre」が「鳶」、とあり、他にも「Worm Sepia」が「うをむせぴあ」、「Blue Black」が「藍黒」と表記されており、色名の訳出や充てた名称に規則性は見られない(注1)。同書には日本製と見られる、東京村田製蜻蛉印、東京中村製鶴印、の絵具も載るが、こちらは、「Sepia」が「セピア」と「烏賊墨」、「Emerald Green」が「エメラルドグリーン」と「緑青」のように併記されるが、「若草」、「猩々緋」、「丹色」、「孔雀緑」と記される色もあり、色名の基準が明確ではない〔図1−1〜3〕。明治期に新しい絵画技法として日本に入ってきた油彩画・水彩画には、日本画で用いられていた絵具とは異なる、新しい色材が必要であった。だが舶来の絵具は高価で希少であり、多くの画家達が絵具の調達に苦労をした(注2)。そんな中で、村田宗清が「日本絵具開祖」と称して日本橋大伝馬町に絵具商としてあり(注3)、当初村田は日本画で使われる絵具を利用して油絵具のようなものを製作して販売していた(注4)。明治10年(1877)の「内国勧業博覧会出品目録」に、村田宗清は「油絵具湿潤水絵具」で褒状を受けたことが記載される(注5)。この村田は、先に挙げた『製図彩色水絵具誌』にある「東京村田」に該当するとも推測される。その後村田だけでなく、櫻木油絵具や、竹内久兵衛といった絵具染料の製造販売業者が出て、国産の絵具製造も発展して行く。さらに明治末期になると輸入絵具が増加し、水彩画等の隆盛も手伝って、手引き書のような書籍も出版されるようになる。そこに書かれる絵具の名称は、アルファベットの名称とカタカナ名称のみが記され、もはや東洋風の名称を充てられていない。例えば、明治38年(1905)刊行の、三宅克己による『水彩画手引』には、絵具についての解説に、「大抵左の十二色を用意せば夫れにて差支え無し」として、アルファベットとカタカナ名の各色が挙げられている。赤(RED)として、クリムゾンレーキ(CRIMSON LAKE)、バーミリオン(VERMILLION)。緑(GREEN)として、エメラルドグリーン(EMERALD GREEN)。黄(YELLOW)として、ガンボージ(GAMBOGE)、エローヲーカ(YELLOW OCHRE)、クロームエロー(CHROME YELLOW)。青(BLVE)として、コバルトブリウー(COBALT BLUE)、ヲルトラマーリン(ULTRAMARINE)、インデゴ(INDIGO)。茶褐色(BROWN)として、バンダイキブラオン(VANDYKE BROWN)、セピヤ(SEPIA)。白(WHITE)として、チヤンイニスホワイト(CHINESE WHITE)、である〈以上、アルファベットの綴りと― 83 ―
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