3.日本における色彩学の初期展開東洋的な五色の概念を有していた日本の色彩観に、混色や三原色といった知識がどのように滲透したかについては明確ではない。ただし日本における色彩学的知識展開についての先行研究には、三原色説がどのように展開したのかについて述べた熊本高工の研究や(注8)、緒方康二の考察等が、代表的な研究として参照される(注9)。だが、色材・色名の歴史的展開と色彩学との関わりについては、研究の余地が残る。明治初期に公的な教育システムの一環に組み込まれた色彩学的知識の端緒は、明治6年(1873)から展開された「色ノ図」、いわゆる色図の教育である。これは、『学校必用色図問答』等の文献に図解が残されている(注10)。色の図というのは、イギリスの化学者フィールド(George Field, 1774−1854)の理論等を下敷きとしたアメリカのウィルソン(Marcius Willson, 1813−1905)によるものであり(注11)、「赤青黄」が三原色として設定されている。この三原色は、今日の色彩学における色材の三原色に近い。今日、光の三原色として理解されるような、ヤング(Thomas Young, 1773−1829)やヘルムホルツ(Herman LF. von Helmholtz, 1821−1894)等の説は、当時の色図では言及されていない。赤青黄を色における基本的な三原色と考える理論は、明治時代以降しばらく、日本の色彩教育の場において受け入れられていた。これは、上記フィールドや、ブリュースター(David Brewster, 1781−1868)の三原色説として、当時のヨーロッパにおいても権威的に受け入れられていた影響と推測される。ただし、この色図は、明治14年(1881)に公布された「小学校教則綱領」では姿を消しており、教育システムに定着しなかった(注12)。美術における色彩について研究し、美術工芸品制作の現場で実践的に色を分類・選択し、美術の教員を養成する東京美術学校において、色彩がどのように扱われたのかを見て行く必要がある。美術学校には、美術教育に関わる教員を専門的に養成する、「図画師範科」が組織された。特に、同科初代主任教授に就任し、『新訂画帖』等の編纂にも関わった、白浜徴(1886−1928)は、日本の色彩教育史に大きな足跡を残す。美術学校で最初に色彩学が講じられたのは、同校で物理・化学を教授した上原六四郎(1848−1913)によるとされるが(注13)、色彩に関わる理論や知識が整理されて教科的に色彩関係の理論が講じられるようになるのは、図画師範科の組織が整ってからである。上原六四郎は、『新訂画帖』にもその名が登場し、明治37年(1904)刊行の白浜徴著述『文部省講習会図画教授法』にも論考を載せている点から、白浜と接点があったことがうかがえる。白浜徴は、美術学校の卒業生名簿によれば(注14)、日本画― 85 ―
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