鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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科の第二期生であり、板谷波山(1872−1963)とは同級である。板谷波山の回顧に「化学の上原先生」と記述があり、逸話的なエピソードに白浜徴が登場していることからも、白浜は上記上原六四郎の講義を受けていると考えられる(注15)。白浜は明治36年(1903)に満三年の欧米留学を命ぜられた後、翌年にアメリカへ出発している。明治37年(1904)5月には、マサチューセッツ州立図画師範学校(Massachusetts State Normal Art School)に入学し、翌年8月に課程を修了した。同校は、カラーシステムを構築したマンセル(Albert Henry Munsell, 1858−1918)の母校でもある。その後直ぐにヨーロッパに旅立った白浜がカラーノーテーション(A ColorNotation, 1905年刊行)を目にし、マンセルとの直接の交流があったとは考えにくい。そのため、日本の色彩学展開にマンセルの理論の吸収が遅れたことが指摘される(注16)。しかし、白浜が米欧滞在中に吸収した美術教育や色彩に関する学識が、明治40年(1907)3月21日の帰国後6月、美術学校に「図画師範科」の設置を以て早速活用されたのは事実である。帰国後の白浜は、明治43年(1910)には『尋常小学新訂画帖』を正木直彦(1862−1940)や上原六四郎と著し、翌年明治44年には『図画教授之理論及実際』、『色彩の練習』といった書籍中に、色彩に関わる記述を残している。例えば、明治44年(1911)に刊行された、『図画教授之理論及実際』においては、ヤングやヘルムホルツの三原色説を紹介している。図解は、今日的な円形のベン図ではなく三角形を用いた図解かつ、印刷された色は適切とは言い難いながら、「絵具上の原色」、「光線上の原色」という図解が示されている〔図5〕。絵具上の原色は、「赤黄青」とされるが、光線上の原色について、本文中にも「緑色を原色なりと云ふ説は極近の説でありまして」とあるように(注17)、新しい色彩理論を進んで取り入れ、各論を考察して色彩論の適切な受容に繋がった点で、日本の色彩学理解と発展に大きな貢献を果たしたものと言える。大正6年(1917)に刊行された『文部省講習会図画科講話集』においては、参考書として矢野道也の『色彩学』の他、“Color Notation” Munsellと記載があり(注18)、マンセルによるカラーシステムについて見知っていることが確認できる。前年大正5年(1916)に、美術学校図画師範科内の教官や卒業生、学生が参加する錦巷会が編集した雑誌、『図画と手工』において、明治45年(1912)図画師範科を卒業した同科第三期の門下生である霜田静志が、「ムンゼル氏色彩組織に就いて」というマンセルについての稿を寄せていることからも明らかである。白浜は欧米で発展して行く色彩学について、進んで新しい知識を学び、その理解と紹介に努めていた。― 86 ―

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