鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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こうした色彩教育の発展については、図画師範科以外にも指摘することができる。例えば、今日の日本画学習者が参考とする、『日本画を描く人のための秘伝集』を昭和8年(1933)に著した本間良助は、美術学校の図画師範科ではなく、後に廃止された「図画講習科」を明治37年(1904)7月に修了している。本間は後に武蔵高等学校教授となった人物で、昭和7年(1932)には、『裁縫手芸に関する色彩指導法』を刊行している。『日本画を描く人のための秘伝集』には、東京美術学校校長の正木直彦の序文が添えられており、『裁縫手芸に関する色彩指導法』は、色彩についての解説が大部を占める内容となっている。正木と本間の直接的な関わりや、色彩に関する二人の直接的な関係性を示した資料は発見できてないが、正木が「秘伝集」に寄せた序文には、かつて大正15年(1926)に自ら刊行に携わった市川守静の『丹青指南』についての言及があり(注19)、彩色法、色彩に対する正木の興味や関心を想像させる。既に述べてきたように、新訂画帖における白浜らとの連携、『図画教授之理論及実際』の序文、美術学校での矢野道也(1876−1946)の登用等、明治34年(1901)より美術学校校長の立場にもあった正木の存在も、色彩学の日本での受容に役立ったと言える。また、明治32年(1889)、東京帝国大学助教授の職にあった武田五一(1872−1938)は、同年、東京美術学校の図案科建築装飾部において教鞭を執っている(注20)。武田は翌年から明治36年(1903)まで、図案学研究のためヨーロッパ留学を命じられている。帰国後、京都高等工芸学校(後の京都工芸繊維大学)図案科教授として赴任しており、この時は同校で「色彩学」も担当している(注21)。大正3年(1914)には、「色彩に就いて」と題する論考を『建築雑誌』に掲載している(注22)。ヨーロッパ留学の期間を考えても、色彩について留学期間においてのみ学んだというよりは、以前から興味を有していたことが推測され、美術学校時代の建築図案の講義においても、色彩関連の知見を述べた可能性がある。そして、明治40年(1907)の矢野道也『色彩学』の刊行は、日本の色彩学展開にとって画期であった(注23)。今日の色彩学で説明されるような科学的かつ体系的な説明が図解とともに記載された日本語の文献として嚆矢とも言え、色彩研究者や色彩に関心を持つ者に広く参照されたと考えられる。同書は、ニュートン(Isaac Newton, 1642−1727)のスペクトル分光の7色から藍色を除いて6色とするなど、明治初期に色図で説明されている内容とは異なる解説が見られるが、フィールドやブリュースターの三原色の紹介に留まらず、ヤングやヘルムホルツの理論説明、マックスウェル(James Clerk Maxwell, 1831−1879)に依るとして「赤緑青」の、今日でいう色光の三― 87 ―

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