原色に相当する考え方をも紹介し、ヘリング(Ewald Hering, 1834−1918)の四色覚まで触れている。赤緑青の三原色は、既述したように白浜による『図画教授之理論及実際』でも参照されたもので、本書には海外の新しい知見の紹介が多くなされている。矢野は内閣印刷局において大正元年(1912)から印刷局製肉課長兼刷版課長を兼ねつつ(注24)、明治43年(1910)には蔵前の東京高等工業学校にて「色彩学」の講師、同校工業図案科が美術学校に移された後、大正3年(1914)より東京美術学校で「色彩学」と「印刷術」の講義を嘱託として担当している。矢野は大正6年(1917)には帝室技芸員に、大正7年(1918)には、美術学校西洋画科理事及び、師範学校・中学校・高等女学校教員等講習会講師嘱託、大正8年(1919)には東京高等工芸学校創立委員を嘱託され、大正10年(1921)からは同校で「色彩学」と「印刷術」の講師を担当した。この矢野道也の『色彩学』が刊行された二年後の明治42年(1909)、浮世絵師小林清親(1847−1915)の門人で、ポンチ絵制作や『滑稽画談』等の作者として知られる、田口米作(1864−1903)の遺稿が整理され、『色彩新論』が刊行されている(注25)。絵画制作に携わる立場から色彩理論について著述した文献として、嚆矢であると言える。しかし、田口は『色彩新論』刊行前に早世し、同書には具体的な参考文献の記載が無いため、どのような文献や論考を参考にしたのか明らかではない。書中にある「紅黄藍」を三原色とする考え方については、明治初期の色図以来、色彩学的知識の解説として示される「赤青黄」の三原色説によるものであろう。ただし、矢野道也や白浜徴による書籍に解説される、フィールドやブリュースター他、海外の色彩研究家による理論・図表とは異なる、独自の混合色表が存在し〔図6−1〜4〕、文様と色彩に関する東洋美術的な視点を含めた分析が行われている点で、特異である。4.おわりに白浜徴等美術教育者たちの尽力もあり、日本において色彩学的知識は迅速に根付いて行った。マンセル表色系の紹介と研究は美術学校図画師範科の門下生、霜田静志により続けられ、大正7年(1918)には濱八百彦の『色の研究』、大正15年(1926)に宮下孝雄の『色彩の知識』といった著作が刊行され、色彩学や色彩理論に関する文献の刊行は増加した。昭和26年(1951)には、和田三造が日本色彩研究所を設立するに至る。現在のJIS標準色票は和田らの活躍の元、マンセル表色系を規格化した(正確には1943年にアメリカ光学会が修正した修正マンセル表色系を用いた)ものである。近代日本の色材と色名は、一朝の元に転換が行われたと単純に考えられるか、変化― 88 ―
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