鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
109/620

研 究 者:慶應義塾大学大学院 文学研究科 後期博士課程はじめに曾我蕭白の個性的な絵画作品群のひとつに、「雪山童子図」〔図1〕(以下、本図)がある。三重県松阪市の継松寺に伝えられる本図は、釈迦の前世を物語る本生譚に取材しており、雪山で修行していた童子(前世の釈迦)が羅刹に姿を変えた帝釈天に試されることで、諸行無常偈を授かるという場面を描く。背景がほとんど描かれない本図では、異様な姿の童子と羅刹とに焦点を絞った描写ばかりに人々の関心が注がれる。しかしながら、図像の観点からみた本図は、実に複雑で多様な意味を孕んでいることがわかる。本稿では、御伽草子『釈迦の本地』の普及が「雪山童子図」の制作を可能にしたことを推定した上で、蕭白がそこに釈迦と帝釈天のイメージ、および著名な薩埵太子の本生譚(捨身飼虎)を重ね合わせたことを明らかにする。さらに、江戸時代に一般民衆のあいだに広く浸透していた庚申信仰の図像に関する見解を提示しつつ、絵師が本図において、庚申信仰に基づく別の異なる演出をも加えている可能性を指摘したい。一、「雪山童子図」に関する先行研究蕭白は明和元年(1764)頃、35歳前後で再度伊勢松坂地方に滞在した際に本図を描いたと考証されている(注1)。注文主は松坂商人・村田彦左衛門であり、その子孫が継松寺に寄進したことも判明する(注2)。つぎに、本図の作画にあたっては、文政2年(1819)刊の合河珉和・北川春成画『扁額規範』巻1に「雪山童子図絵馬」の縮図〔図4〕があり、蕭白作品との共通点が指摘されている(注3)。井上勘兵衛が寛文7年(1667)に描いたというこの絵馬は現存しないが、もと都の祇園社にあり、当然蕭白の眼に触れた可能性が指摘されるものである(注4)。二、「雪山童子図」の位置付けと、その図様手本まず、本図図様の絵画史上における位置付けを検討しつつ、蕭白が参照したとおぼしき先蹤例について考察を加えたいが、それに先立ち、まずは「仏伝」と『釈迦の本地』について触れておく必要があろう。釈迦の前世、および誕生から涅槃に至るそのミウォシュ・ヴォズニ(Milosz Ryszard Wozny)― 99 ―⑩曾我蕭白筆「雪山童子図」について─『釈迦の本地』、捨身飼虎、庚申信仰との関係を中心に─

元のページ  ../index.html#109

このブックを見る