生涯にまつわる仏伝は、平安時代以降の説話集において見受けられる。なかでも雪山童子譚を含む例に、平安時代中期の『三宝絵』、平安時代末期の『宝物集』、また鎌倉時代の『私聚百因縁集』がある。時代が下ると、15・16世紀には中世仏伝を集約した御伽草子『釈迦の本地』が誕生する。小峯和明氏が述べられるように、『釈迦の本地』は日本における仏伝のなかで最も広範に親しまれたテキストであり、近世を通じてその絵巻と絵本、および版本が数多く制作された(注5)。本研究との関連で注目すべきは、雪山童子譚が冒頭部分に記される点こそが『釈迦の本地』最大の特徴であり、また、童子が羅刹に己が身を与えようとする場面が頻繁に絵画化されるという指摘である(注6)。さらに、寛文7年(1667)に制作された上述の「雪山童子図絵馬」や、元禄末年、18世紀初頭頃に刊行された大森善清画『琵琶海・扇ながし・乗合船』(零本)の挿図〔図5〕は、大英博物館本『釈迦の本地』(17世紀)〔図2〕や、同じく金刀比羅宮本(17世紀中頃)〔図3〕との符号が多いことから、これらの図様はいずれも本来『釈迦の本地』に端を発するのではないかと考えられる。すなわち、『釈迦の本地』における雪山童子の場面がとりわけ人気を呼んだために、近世にはそれのみを単独で描いた絵画や挿図も描かれたようである。蕭白の手懸けた「雪山童子図」もそれらと同様に位置づけられるべきと思われるのだが、彼はその作画では何を具体的な手本としたのだろうか。前述した中では、「雪山童子図絵馬」がその原形である可能性もすでに指摘されるものの、大森善清による挿図はより近似した図様を示すようでもある。そこに描かれる童子をみると、頭を前方へと突き出した、動きを感じさせる姿勢や、両足の向きなどがよく一致しており、蕭白は制作に際してこの挿図を直接参考にしたのではないかと思わせるほどである。一方、羅刹の姿勢や衣服などは、金刀比羅宮本『釈迦の本地』との相関を窺わせる。無論これを実見したとは思えないものの、蕭白が同一系統の図様を眼にして「雪山童子図」に取り入れたと考えても無理はないだろう。雪山童子は一見珍しい画題にみえるため、先行研究では蕭白が祇園社の「雪山童子図絵馬」を実見したか否かが問題となっていた。しかし、従来美術史ではあまり注目されていない御伽草子『釈迦の本地』を視野に入れると、蕭白の生きた江戸中期には既に雪山童子の場面を描いた絵巻や絵本、および版本が数多く流通しており、図様のバリエーションも存在していたことがわかる。この『釈迦の本地』の普及を前提としなければ、蕭白の「雪山童子図」制作は難しかった、とすら考えられよう。― 100 ―
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