鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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三、「雪山童子図」における釈迦と帝釈天、および捨身飼虎のイメージでは、本図と先行作例との違いはなにか。雪山童子は後世において釈迦として生まれ変わったが、本図に描かれる童子をよく観察すると、そこには実は釈迦のイメージが重ね合わされていることに気付く。童子の上半身はうっすらとした光背に囲まれており、なおかつ額には白毫が、また耳朶が環状になっているほか、樹枝に掛かった上衣の蓮華文様もそのことを示してくれる。蓮華文様は、吉村周山画『画英』巻2(寛延3年〔1750〕刊)に描かれる釈迦の衲衣にも認められるため、蕭白の描く童子の上衣はすなわち、釈迦の衲衣でもあると考えられよう。他方、羅刹の姿で注目すべきは、その上膊に付けた臂釧という装身具である。これは金刀比羅宮本『釈迦の本地』など先行作例には見当たらないが、その理由は臂釧が羅刹や鬼というよりも、むしろ仏の身を飾るものだから、とも考えられそうだ。これとよく似た臂釧は、蕭白の師とされる高田敬輔が滋賀県・信楽院の天井に描いた飛天(注7)に確認できるのみならず、天部や明王、および菩薩を描いた各時代の仏画にも散見される。蕭白はこのモチーフを新たに追加することで、童子と向き合っているのが単なる羅刹ではなく、実際には帝釈天の化身であることをも重ねて暗示しているのではないだろうか。つまり、絵師は童子と羅刹とを描きつつも、ダブル・イメージとして釈迦と帝釈天の姿をそこに投影したと考えて差し支えあるまい。次に、さらにもう一段掘り下げて、本作品における作画意図の全容解明に及びたい。それにあたり、最初に時代を遡って法隆寺の著名な玉虫厨子に触れておきたい。本厨子には各面に仏画が描かれており、とくに下部にあたる須弥座の両側面には、すべて本生譚があらわされる。右側面には雪山童子を主役とする「施身聞偈図」〔図6〕があり、左側面には釈迦が薩埵太子だったとき、飢えた虎に自分の身体を投げ出して与えたという有名な場面を描いた「捨身飼虎図」〔図7〕がある。前世の釈迦が自らを犠牲にした物語を示す両図では、童子や太子がいずれも高い位置からその身を投げ出す様子が見事に描写される。このように、「施身聞偈図」と「捨身飼虎図」を両側面において対比させる玉虫厨子に対して、蕭白の「雪山童子図」ではどうだろうか。結論を急ぐならば、当該図で蕭白は、それらを一図として融合させる試みをおこなっている、というのが私見である。蕭白の図において童子が樹枝に立つという演出に注目してみると、元来雪山童子譚を記す『大般涅槃経』聖行品に、「即ち高樹に上り(中略)自ら樹下に投ず」(注8)とあるので、童子は羅刹に身を投げるつもりで高樹に登ったことがわかる。玉虫厨子「施身聞偈図」でも、画面右上には高樹が配され、雪山童子がそこから飛び降りる様― 101 ―

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