鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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のなかの、シヴァの姿にもとめることができるとみて、青面金剛像でもそれが上半身裸の女性像としてあらわされる、という考え方もある(注15)。ただし、この人物をショケラとする根拠は伝承のみであるため、なお検討の余地があろう。ここで、江戸時代の青面金剛像のなかでよく知られている、大和郡山市・金輪院旧蔵本〔図10〕(注16)を図様解釈の手掛かりにしたい。寛政8年(1796)に刊行された『増補仏像図彙』「庚申青面金剛」の項〔図12〕には、青面金剛の左右に「右方童子」と「左方童子」、その下には「四句文刹鬼」(通常「四薬叉」と呼ばれる)が配されており、さらに金輪院旧蔵本の構図とほぼ一致する。さらに、「青色」と記される刹鬼には「諸行無常」、「赤色」には「是生滅法」、「黒色」には「生滅滅已」、そして「肉色」には「寂滅為楽」とあるように、諸行無常偈の四句がそれぞれの刹鬼と結びついている。これらの文言は、雪山童子が羅刹に諸行無常偈を授かった話を想起させるが、さらに「庚申青面金剛」の項にはみられない童子の姿が、金輪院旧蔵本には描かれているのである〔図11〕。身体に比して大きな頭や、膨らみのある頬などから、女性と考えられてきたこの人物はむしろ、童子形として描かれていることが明らかである。さらに、下半身に付けている赤い衣は多くの雪山童子図と一致しており、あるいはその礼拝の姿も、たとえば岩瀬文庫本『釈迦の本地』に確認できる(注17)。『増補仏像図彙』の記述と金輪院旧蔵本「青面金剛像」にみられる童子の姿とを併せ考えると、青面金剛と雪山童子譚との間には、何らかの関連が生じていた可能性は高い、と考えてよいだろう(注18)。両者の関係については、天帝(三尸虫が人間の所業を報告する神)を帝釈天(雪山童子を試した仏)と同一視する思想の存在をこの際考慮すべきであろう(注19)。さて、蕭白「雪山童子図」の理解に際して注目すべきは、金輪院旧蔵本で童子を掴んでいる青色の刹鬼、つまり『増補仏像図彙』「庚申青面金剛」の項ではちょうど諸行無常偈の冒頭に登場する刹鬼についてである。雪山童子の同一場面を描く先行作例と異なり、わざわざ意図して青色の羅刹を描いた蕭白は、つまりそこに、庚申信仰との繋がりをも意識していたのではないだろうか。江戸中期には既に庚申信仰が民間に広まり、ことに大和郡山市・金輪院と、庚申信仰の中心である大阪市・天王寺はともに蕭白が遊歴していた関西地方にあることなどから、現実に庚申信仰は蕭白その人にとっても、身近で親しいものだったのではないか、と推察されるのである。おわりに今日、「雪山童子図」は蕭白の代表作のひとつとみなされているものの、どうして― 104 ―

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