鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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趺坐する。右手は胸前に上げて施無畏印を表し、左手に薬壺を執る。頭体の大略を一材より木取りし、木心は後方にはずす。右肩より先、左袖と手先、両脚部に別材を寄せ、体部材と両脚部材の接合部はゆるやかな曲面をなして、脚部材底面はやや刳り上げる。像表面は白土下地を施して彩色する。九重蓮華座(蓮肉・上敷茄子・華盤・下敷茄子・受座・反花・蛤座・框二段)と板光背も当初のものが残る。頭体の均衡が整って量感を残した体軀の表現は、法量に差はあるが、正暦元年(990)頃造像の奈良県・法隆寺講堂薬師如来坐像や正暦4年(993)頃造像の滋賀県・善水寺薬師如来坐像などと近く、およそ10世紀末から11世紀初めごろの造像と捉えられる。板光背の彩色はおおらかで古様であるが、後述する鎌倉時代の多聞天立像を含む同寺全ての仏像に施された彩色とも共通しており、中世における補彩と捉えられる。菩薩形坐像〔図2〕(和歌山県指定文化財)は、本尊薬師如来坐像と作風が共通する。像高36.5cm、髪際高29.8cmを計り、髻を結って、条帛、裙、天衣をまとい、合掌して結跏趺坐する。頭体の大略を、両手の肘までを含んで一木より木取りし、木心は後方にはずす。手先を含んで両肘より先、及び両脚部に別材を矧ぎ寄せ、脚部材底面をやや刳り上げる。像表面は白土下地を施して彩色し、八重蓮華座と板光背も当初のものが残る。薬師如来坐像同様、量感を残しつつ、緊張をやや解いた穏和さへの志向もうかがえ、10世紀末から11世紀初めごろの造像と判断される。法量の一致や、台座を一段分低くしていることなど、当初から薬師如来像の脇侍像であったとみられるが、合掌手を示す菩薩像を勢至菩薩、あるいは普賢菩薩と想定すれば、両手先を後補とする薬師如来坐像は本来、阿弥陀如来、あるいは釈迦如来であった可能性がある。地蔵菩薩立像〔図3〕(和歌山県指定文化財)は、像高93.7cmを計り、頭部を円頂相として、衲衣、覆肩衣、裙、沓を着け、左手は胸前で宝珠を執り、右手は掌を前に向けて垂下する。左手先と両足先を除く全身を一材より木取りし、像表面は白土下地を施して彩色する。台座は框座と敷茄子部分だけが残る。体軀の厚みが大きく重量感があり、肩をややいからせ、両腿の膨らみが強調された体型は、奈良県・西光院地蔵菩薩立像や京都府・法性寺地蔵菩薩立像など10世紀の作例に通じる。ただ、表情は穏やかなものとなり、衣紋も浅くなっていることなどの特徴から、造像時期は10世紀後半ごろと想定される。持国天立像〔図4〕は、像高70.2cm、髪際高62.0cmを計る。兜・襟甲・肩甲・胸甲・表甲・下甲・前楯・脛当を着けて沓をはき、大袖衣・鰭袖衣・袴・裙をまとって岩座上に立つ。頭体通して両足先を含んで一木より木取りし、両肩から先をそれぞれ別材製とする。この両手は、右手に剣を執り(欠失)、その切っ先を左手で受ける形で、『陀― 2 ―

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