― 111 ―Ⅱ.ロートレックとシェレ、二人の芸術家と日本美術の接点ロートレックが日本美術に関心を持ったのは、皮肉にも彼の芸術活動に理解を示さなかった父親の影響が大きい。貴族階級で仮装を趣味とした父アルフォンスが所有していた日本の着物を幼少期より目にし、時に身に付けて写真を撮り、日本美術を間近に見ていた。パリのコルモンのアトリエでは、浮世絵の熱心なコレクターであったファン・ゴッホ(注5)とも交友し、ビングの店「アール・ヌーヴォー」で日本美術品や同時代のジャポニスムの作例を多く目にした。1890年代半ば、前衛文芸雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』に参加したロートレックは、ジャポニスム流行の影響下で装飾芸術を追求したナビ派の画家たちとも交流した(注6)。日本の水墨画を思わせる流麗な線描はロートレックの芸術の大きな特徴の一つであるが、エドゥアール・ヴュイヤールのクロッキー帳に残された同様の様式による素描は、彼らの関心の近似を物語っている。また、ロートレックにポスター制作の手掛かりを与えたのは、「日本美術のナビ」とも呼ばれたピエール・ボナールであり、ポスターにおけるジャポニスムについては、彼の作品《フランス・シャンパーニュ》(1891年、パリ装飾美術館)等から学んだ部分は大きい(注7)。このように、同業者の間でジャポニスムが流行していた時代背景もさることながら、ロートレックにはより日本美術に接近する固有の環境も整っていた。親友にして画商、そして画家の没後は遺産相続者となってアルビのロートレック美術館設立にも尽力したモーリス・ジョワイヤン(1864−1930)が支配人を務めたブッソ・エ・ヴァラドン画廊(前グーピル商会)は、ロートレックに日本美術と直に触れる機会を提供したのである(注8)。1890年、この画廊での浮世絵展の際、ロートレックは「昼となく夜となく、幾日も、春信、清長、歌麿、北斎の浮世絵を知るために、整理するために、そして落款を読んで写すために過ごした」(注9)と言う。ジョワイヤンの伝記によると、その後娼婦の日常生活に取材し制作したリトグラフ集〈彼女たち〉(1896年、三菱一号館美術館)は、歌麿の〈青楼十二時〉(1794年頃)からインスピレーションを受けたものである(注10)。ロートレック旧蔵の日本美術品についてはジョワイヤンの遺族のメリック家のコレクションになっていたのを最後に、現在は所在不明となっており、ジョワイヤンがミシェル・マンジと共同で経営した画廊のコレクション売立目録に含まれる日本美術品リストが、ロートレックのジャポニスムを検証するための貴重な手掛かりとなっている(注11)。一方、ジュール・シェレの経歴はロートレックと見事な対照をなす。1836年にパリの貧しい家に生まれ、幼くしてデッサンの素質を表したシェレに石版画職人になるこ
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