― 112 ―とを進めたのは、植字工だった彼の父親だった。シェレは、国立デッサン学校で技法を学び、英国に7年間滞在し多色刷りの石版印刷技法を習得する。後に英国製印刷機を導入して工房を発展させ、広告ポスターの分野では同時代で類を見ない成功を遂げた。シェレは香水製造業者リンメルから商品ラベルのデザインを任されただけでなく、その資金援助により30歳にしてパリに石版画印刷工房を構えることとなるが、注目すべきは、このリンメルの依頼による仕事がシェレの初期のジャポニスムの作例となった点である。1870年に刊行されたリンメルの著作『香水の本』(注12)のためにシェレが手掛けた挿絵〔図1〕は、1865年に長崎の出版社より刊行された歌舞伎役者のための髪型見本雑誌から直接的に模写されたもので(注13)、画面上部や挿絵の説明書きとして、不自然な筆跡による漢字が連なっている。こうした直接的な模倣の手本として考えられるのは、自身のあるいは身近な人物の日本美術コレクションである。1933年4月27日にヴィルフランシュ=シュル=メルで行われたシェレの没後の売立目録(注14)には、複数の日本美術品が列記されている。例えば蔵書の中には、初期の日本美術愛好家ゴンクールの『日記』に加え「日本のアルバム数冊」も含まれていた(注15)。また「雪の中、歩を進める二人の若い女性」を描いた浮世絵版画、「日本の古い木彫」、「日本の仮面一式」、「日本の短刀」等(注16)が記録されている。一方、シェレの有力なパトロンとなった収集家ジョセフ・ヴィッタ男爵は、同時代の装飾芸術家たちの庇護者であると同時に、日本美術を含む東洋美術のコレクターでもあった(注17)。彼の収集品について、1924年の売立目録(注18)およびニースのシェレ美術館で1934年に開催された「中国および日本の美術品展」図録(注19)には、中国の象牙彫像や陶磁器や絵画、日本の印籠や根付、蒔絵硯箱、陶磁器、歌麿の浮世絵等が写真入りで掲載されており、中にはゴンクール旧蔵の来歴を有する北斎の素描等も含まれている。ヴィッタとの交流はシェレが装飾芸術に着手した1890年頃から始まり、夫妻の肖像を残しただけでなく、エヴィアンのヴィッタ邸装飾を手掛けた。また、画家が晩年移り住んだニースに設立されたシェレ美術館は、ヴィッタの寄贈品によるものであり、その関係は極めて深いものであった。Ⅲ.ロートレックとシェレ、ポスターにおけるジャポニスム以上のようにこれまでほとんど知られていなかったシェレと日本美術との接点を明らかにした上で、次にその造形的影響について、同時代の批評も参照しつつ、ロート
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