鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 113 ―レックと比較しながら検証する。第一に、シェレの広告ポスターの中には、《日本人団》〔図2〕など日本をテーマにした演目を扱ったものも含まれ、着物の女性の縦長のシルエットや顔貌表現には、ヴィッタが所蔵の歌麿の浮世絵〔図3〕との類似も見受けられる。また直接日本に関連する主題でない場合も、扇子や漢字など日本のモティーフが挿入されている例もある。1891年に手がけた装飾壁紙連作4点中《喜劇》〔図4〕に日本の能面のような仮面が描かれているのは、没後の売立目録にある「日本の仮面」が参照されたものであると考えられる。一方モンジョワイユー著『パリの女性たち』の表紙絵〔図5〕には、女性の持ち物として意匠的に「齋」の文字が入れられた日本の扇が登場する(注20)。パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)での「日本の版画展」(注21)は、ロートレックだけでなく同時代のポスト印象派の画家たちにも大きな影響を与えた。この展覧会のポスター〔図6〕のみならず、1889年に別の日本美術愛好家のルイ・ドゥムーラン(1860−1924)のコレクション展図録(注22)を手掛けたことは、周囲の画家たちに「シェレ=ジャポニスムの作家」のイメージを植えつけたであろう。シェレの仕事が周囲の画家たちにも影響力があったことは、フェリックス・ヴァロットンが「同時代の芸術運動における彼の重要性」を述べた批評にも既に見られる(注23)が、さらに批評家クロード・ロジェ=マルクスは、シェレの発見者としてボナールやヴュイヤール、さらにはピュヴィス・ド・シャヴァンヌやクロード・モネ、そしてロートレックらの名を挙げ、彼ら「画家たちの目を日本美術に対して解放した」のはシェレであると述べている(注24)。一方、当時の写真〔図7〕を見ても、モンマルトルのミュージック・ホール「ムーラン・ルージュ」の常連だったロートレックが店主からポスターの注文を受けた際、開店時シェレが手掛けたポスター《ムーラン・ルージュの舞踏会》〔図8〕を意識しなかったはずがない。この初めての大仕事に抜擢されたロートレックが、簡潔かつ大胆で斬新な構図によって描き出した《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》〔図9〕は、55歳の巨匠シェレに対する、27歳の若きロートレックの敬意を込めた挑戦であったのではないだろうか。この尊敬する先輩作家に対し、ロートレックは後に作品を贈った記録も残っている(注25)。本作についてはここで詳しく述べないが、筆による線描、シルエットの使用、鮮やかな色の対比、平坦な色面、モティーフの単純化等、斬新な表現の多くは日本美術の特徴に直接的あるいは間接的に結びついている。とりわけ前景の人物を引き立てるように背景の観衆をシルエットと化した描写は、他のポスターでも随所に採用され(注26)、そのインスピレーション源として日本の浮世絵

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