鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 114 ―に描かれたシルエット表現との影響関係が論じられてきた(注27)。しかし、背景の人物を暗色のシルエットに還元する同様の手法は、シェレが既に用いていたものであり、ロートレックのシルエット表現はそのヴァリエーションであるとも考えらえる。「街角のフラゴナール」と称されたシェレのポスターは、その大半に「シェレット」と呼ばれた理想化された愛らしい女性が登場し〔図10〕主に赤、黄、青、濃淡の調子を出す透明色の4枚の石版を用いた明るいトーンが特徴で、輪郭線も主にブルーやグリーンで引かれている。それらは一見、黄色や赤など鮮明な彩色とくっきりとした墨のような黒い線を多用したロートレックとは対照的に見える。しかしながら、サーカスのピエロの巡業用に制作された文字入り前のポスター《曲馬場、4人のピエロ》〔図11〕は、鮮やかに対比された平坦な色面による構成に浮世絵の影響を見ることができるのに加え、躍動的な人物の単純化されたフォルムや、4人のピエロが奥行き感なく抽象的な空間に配される様にも、北斎漫画などの影響が感じられる(注28)。前述の通りシェレ自身でも日本の挿絵本数冊を所有し、また親しいパトロンのヴィッタが北斎漫画を所蔵していたこととから(注29)、それらの参照を推論できる。さらに、先行例で日本の演目を主題としたポスター《曲馬場、日本の軽業師と猛獣使い》〔図12〕と比較すると、画面を対角線で切り分け、背景の抽象的な処理と奥行き感の無い空間表現が共通していることから、シェレが「日本の」と理解していた(おそらく中国の)軽業師のモティーフが、《曲馬場、4人のピエロ》の原型であると推測することも可能である。実はこれら「日本の」軽業師のモティーフは、衣装などの細部に変更を加えて翌年《1883年馬術演技シーズン、アルマ橋近くの曲馬場》(1883年、パリ装飾美術館)のポスターに用いられた(注30)。シェレの作風が、同時代の人々によって日本美術と結びつけて語られていたことは、既に1880年代末から1890年代にかけての美術批評の中に見出すことが出来る。ジョルジュ・オリオールは『シャ・ノワール』誌1890年1月18日号に「彼の線描は大胆かつしなやかで力強く、日本の線描のごとく放たれる。その色彩は平面的に配され、あるいは巧みにぼかされており、かつてリトグラフに用いられたおぞましい「点描」はとうの昔に使うのを止めている」(注31)と記し、線描と日本美術との類似ともに、平坦な色面を挙げる。一方、レオンス・ベネディットは『ラルティスト』誌1890年2月号の記事の中で 、シェレが「中国や日本の美しい漆器に夢中になって」いたことを述べた上で、「シェレ氏は装飾芸術とカプリッチョ(奇想画)の独占権を有する極東の国々に目を向け、そこから力強い色調の大胆な戯れや、動きや身振りを単純化し生き生きと表現する手法を求めた」とし、また、その色彩について「日本人のように、

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