― 115 ―とりわけ黄色と紫を対比させ」ていることにも言及している(注32)。ここに記録された発言は、シェレが日本の屏風を所有していたことの証であると同時に、日本美術について、細部やフォルムの解釈とその装飾性を画家自身が評価していたことを示している。同時代の批評と併せ読むと、素早い即興によるしなやかな線描、対比的な配色、モティーフや動作の単純化など、これまでロートレック芸術の革新性がジャポニスムの特徴と結びつけて論じられていくつかの点が既にシェレのポスターの中に見出だせることに気付くだろう。シェレのジャポニスムは、ロートレックのそれと比較した時、日本美術に関する理解にはいささか劣るのは否めず(注34)、モティーフの直接的な引用は模倣の域を超えない。シェレが日本に関する演目や対象を扱ったポスターでは日本女性や軽業師など、画面の中心人物もまた個性のない典型化した姿で繰り返し表象されるのと対照的に、ロートレックの場合、《ディヴァン・ジャポネ(日本の長椅子)》のポスターにさえも、紋切り型の日本女性を画面に登場させることはなかった。しかし、ロートレックが生涯に30点程度のポスターしか制作しなかったのに対しシェレは1000点以上を手掛けた通り、二人の制作数には圧倒的な差があり、それは異なる制作態度の反映でもあった。シェレがポスターにおいて「美しい女性像」を多用した背景には明らかに大量販売のためという商業的意図があり、反対に、出版差止の憂き目にあっても印刷費を自ら負担して制作を進めた(注35)ほどのロートレックは、宣伝対象である歌手や女優もあえて醜くデフォルメした。すなわち、二人の画家はともにポスター芸術の興隆に貢献したが、制作者としての立場は全く異なっていたと言える。ロートレックはもはやポスターというメディアをタブローと並列の芸術活動の発表の場とし、あくまで「アーティスト」としての発想を自由にぶつけることが可能な環境にあったのに対し、ポスター作家としてのシェレは当初は自身が職人として、後に工房のアート・ディレクターとして、広告媒体という枠組の中で芸術性を追求し1920年代の『イリュストラシオン』誌には、シェレ自身が語った言葉として次のように記録されている。「去る4月のある晩、私はシェレが収集した本当に素晴らしい美術品に囲まれて彼と面会し、あなたの好きな芸術家は誰かと尋ねたら、次のように答えた。『第一に、しばしば言っているように、日本人たちです。なんと驚くべき芸術家たちでしょう!その細部やフォルムの解釈について、なんと我々よりはるか先を行っていることでしょう!こちらの私の居間には、闘鶏を描いた無名の日本人による屏風があります。これは素晴らしいものです。私はこれほど美しく装飾的なものを他に知りません』」(注33)。
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